第六七八話 クラリオン(二)
朝食の時間が終わったDKだ。孝子と佳世はシンクの前に立って後片付けにいそしんでいる。美咲は出勤に備えて自室に引き取り、那美とロンドの音沙汰はない。
「お姉さん」
フライパンを拭き上げる佳世の手が止まった。
「何かね」
「福岡には、どれぐらい滞在されるんですか?」
「四、五日。月末は、私、群馬に行く予定があるの」
「旅行ですか?」
「うん」
「いいなあ。その時期は、私、全日本の合宿ですよ。行きたくなーい。北崎さんも須之内さんもいないし」
「今回は仕方ない。おはるは全日本どころじゃないし、須之ちゃんは今年はずっとお休みだし」
春菜は、対静の下準備。景は、学業に集中するため。この意味で、孝子は言った。
「ですよね。LBAも佳境ですし」
佳世は知らなかったか。春菜が静に対して敵がい心を燃やしている事実を。まあ、よい。説明するのも、おっくうだ。聞き流しておくとする。
「ケイちゃん。ちょっと大変そうだよ」
そうこうするうち、DKに那美とロンドが戻ってきた。食器を拭く手を止めて、孝子は那美とロンドのほうへ向き直る。
「何か、わかった?」
那美いわく、ペットを電車に乗せるには、ペットキャリーに入れた上で、手回り品として持ち込む必要があるそうな。
「キャリーのサイズも決まってて、縦、横、高さの合計が一二〇センチ以内じゃないと駄目みたい」
脳裏に描いてみる。小さくは、なかろうか。
「那美ちゃん。犬は、そのサイズに入る?」
「わんわん、小柄だから、入ることは入るけど。ちなみに、うちにあるのは駄目だった」
ロンドを車に乗せるときに使っているペットキャリーは、三辺の合計が一四〇センチ弱あったらしい。
「微妙だね。黙ってたら、ばれないかも」
「でも、万が一、ばれて、電車に乗れなかったら、最悪ですよ」
佳世の懸念も、もっともだった。規則は規則として、甘ったれた思考は捨てるべきだろう。
「ケイちゃん。買おうよ」
「買わないよ。今回しか使わないのに。もったいない」
「じゃあ、レンタル」
「はあ?」
孝子は、さめた。刹那だ。煩わしい。考えてみれば、ロンドだけではない。それ以外の手回り品や土産も運ぶ必要がある。大荷物を抱えてまで、行くほどのことか。実に、煩わしい。
「やめた」
「え!?」
「行くの、やめた。車は陸送してもらう」
「福岡は、どうするの!?」
「行かない」
「うそつくの!?」
「つく、つく。はい。うそつき、うそつき。悪いのは、私。全部、私。ごめんね。これに懲りたら、うそつきの言うことなんか信じないようにね」
那美がはっとした。孝子のただならぬ様子に気が付いたのだ。ただ、心配は無用である。憤怒はなかった。ひたすら倦怠があるのみだった。
「ケイちゃん、待って!」
「何を」
「私にチャンスをちょうだい! なんとかする!」
「しなくていいよ」
「する! させて! お願い!」
ここぞとばかりに那美とロンドは孝子の前に平伏する。
「勝手にしろ」
一人と一匹はすっ飛んでいった。
「お姉さーん。怒らないでくださいよー」
再開した後片付けの最中だ。佳世が口を開いた。。
「怒ってないよ。もう、一瞬でかったるくなっちゃって」
「はあ」
「我ながら飽きっぽい」
「お姉さんらしいです」
「褒められているのやら。けなされているのやら」
佳世との何気ない会話に興じるうち、孝子の気も紛れていった。那美が何をたくらんでいるのかはわからぬものの、一応、話は聞いてやるか、という気になっている。
と、そこへ、
「ケイちゃん! オーケー!」
那美とロンドがDKに駆け戻ってきた。双方、喜色満面だ。
「何が」
「郷本さんに、助けて、って電話したら、車で送ってくれるって!」
そうきたか。確かに、あの男ならば引き受けてもくれよう。愚妹と駄犬め、大した知恵ではあった、が。翻って考えるに、尋道も物好きな、としか言いようがない。あざけりかけて、やめる。せっかくの厚意である。せいぜい甘えさせてもらう、と孝子は決めた。




