第六七三話 羅針儀(二二)
朝一番に開口一番だ。始業直後の舞姫館に姿を見せた尋道が、祥子にパスポートの有無をただしてきたのである。アンダー世代の全日本に選出された折に取得したものを所持してはいるが、なんとも唐突といえた。一体全体、何が起こっているのか。とにかく、上司からの問い掛けだった。思案よりも返答を、祥子は優先させねばなるまい。
「はい。持ってます」
近づいてきた尋道を直立して迎えながら祥子は答えた。
「それは、よかった。急な話で申し訳ないんですが、ロザリンドに行ってください。北崎さん、コーチ業の開業準備をされていて、手が足りない、と。アシスタントが欲しい、と。リクエストをよこしましてね。行って、お手伝いしてきてください」
「いきなり、なんなんですか、郷本さん」
あぜんとして声を失った祥子に成り代わって押し出てきたのはまどかであったが、
「どうですか、高遠さん。行きますか。行きませんか」
尋道は取り合わない。
「は、はい。行きます」
「では、よろしくお願いします。ああ。高遠さん。一人では不安でしょう。須之内さんを付けますよ」
あっ。祥子は胸中で叫んでいた。祥子と景の組み合わせから想起されたのは、昨日、孝子に舞姫の土産物を届けた際の出来事だ。子細はわからぬものの、長沢の披露宴参加をめぐる景のどたばたと、孝子に打ち明けた祥子の漠たる希望とが、突発的な指令の端緒となっている可能性は高かった。
とすれば、景はどう動いたのだろう。昨夜、二〇〇万の用途を伝えるために電話をかけたなら、そんなことに二〇〇も使えるか、などとうめいていたが。免除されたのか。はたまた散財を受忍させられたのか。
「ちょっと待ってくださいよ。そんなの、郷本さんがやったらいいじゃないですか! 先輩、練習があるんですよ!」
思索の横では、まどかが騒がしい。対して、尋道の舌鋒が向けられた先は、まどかでなく舞姫島だ。
「御社。距離的に漏れ聞こえるのは仕方ないとはいえ、他社の、もっと言えば、親会社の人事ですよ。首を突っ込んでくる御社のスタッフも、いさめないあなた方も、どういう了見なのでしょう」
中村以下の顔が引きつる。
「伊澤! 黙れ!」
井幡の怒声が響いた。
「でも」
「でも、じゃない! 黙れ!」
ふてくされ、頬を膨らませて自席に戻るまどかを尻目に、尋道は再び祥子と正対する。
「部外者に言われるまでもなく、あなたが現役のバスケットボール選手だということは、僕だって承知しています。なので、アシスタントとしての活動中、あなたにブランクが生じないよう、北崎さんには配慮をお願いしました」
一に、ロザリンド・スプリングスのトレーニングに参加する権利。
一に、春菜のコーチを受ける権利。
「いずれも貴重な経験になると思いますので、このあたりで勘弁していただけますか。そうそう。須之内さんも、ね。付き合わせますので。こちらも、一人ではありませんよ。安心してください」
続いて、あの子も教職課程で、すっかりなまっていると聞いていますし、いい機会でしょう、と尋道は独り言ちている。……わざとらしい。
祥子と景、二人の目指すところへの筋道を、体裁よく整えた尋道の趣向は、お見通しだ。無論、看破したからといって、誇るつもりはない。感謝だ。ひたすら感謝しかない。故に、乗っていく。
「はい。私も、せっかくの機会です。精いっぱい、学ばせていただきたいと思います」
「結構。中村さん。お聞きのとおりです」
尋道が中村の元へと寄った。
「期間は、長くても一カ月程度でしょうか。その間で高遠さんがなまってしまう可能性は、『至上の天才』の名に懸けてゼロですので、ご了承いただければ、と」
祥子は勢い込んで尋道の隣に立った。
「中村さん! 行かせてください!」
「あ、ああ。カラーズさんのされることだ。行ってきなさい」
「ありがとうございます!」
尋道が横目できた。
「高遠さん。早速、準備を。北崎さん、すぐにでもアシスタントが欲しいそうなので」
「はい」
「あなた、一カ月ぐらいの旅行って経験はありますか?」
「いえ。ないです」
「では、須之内さんに連絡を。全日本で遠征の経験は豊富だ。いろいろ聞いてみたらいいでしょう」
この上なく、きれいにまとまった。全て、尋道氏の脚本どおりの流れなのだろう。とくれば、祥子の成すべきは、流れを滞らせぬよう、尋道の仰せに即応することであるはずだった。
「はい!」
と、元気よく。




