第六七二話 羅針儀(二一)
途中、麻弥が、異常、に気付いたようだった。ちらちら尋道のほうをうかがっている。はしこいみさとが無反応なのは、おそらく、見て見ぬ振りだ。
やがて、孝子が二〇〇万なる金額が出てきたいきさつを語り終えたのと同時に、意を決した様子で麻弥は声を上げた。
「郷本。須之内の気持ちもわからないでもないし、そんな怖い顔をしなくても」
「内定って、今から取り消すのは難しいですよね」
お人好しと議論をするつもりは、さらさらないらしい。最大級の一撃で、尋道は麻弥の二の句を封じてきた。
「そうねえ。須之内さんの場合、うちだけじゃなくて、アストロノーツさんにも関わるしねえ」
籍はカラーズに置き、選手としての契約は高鷲重工アストロノーツと結ぶ、という形態で、日本リーグに参加予定の景である。
「そうですか」
舌打ち、瞑目ときて、室内の空気は一気に重くなった。
「まあ、やつを擁護するつもりはないんで、煮るなり焼くなり好きにしたらいいよ。そんなことよりも、さっちゃんさ」
話題の転換だ。ここで、さらなる余聞の存在を孝子は明らかにする。
「さっちゃん、ね。須之ちゃんがおはるに弟子入りして腕を磨く、って部分に興味があったみたいで」
根底にあったのは、バスケットボール選手、高遠祥子の現在地だ。学生時代の盟友たちと比したとき、自分の実力は、少なくとも一段下、と祥子は見立てていた。それでも、いつか、と彼女は願うのだ。いつか、盟友たちと再び肩を並べ、同じチーム――全日本で、と。
「ああ。で、春菜のところに行きたい、ってか」
「いや。行きたい、とは言ってなかった。費用の問題もあるし、中村さんの手前もあるしで、難しいですよねー、って」
「そもそも、高遠って、静たちと比べて、そんなに下か?」
「さっちゃんは、そう思ってるし、おはるに聞いても、まっとうな自己分析だ、って。あと、環境もよくない。よくない、まで言っちゃうと語弊があるかもしれないけど、舞姫でやってる限り、さっちゃんが、これ以上、伸びることはないそうな」
「中村さんがいるのに?」
「おはるが言ったんだよ。文句があるなら、おはるに言え」
一言居士に食らわせておいて、孝子は続ける。
「いい? いくら中村さんが世界一のコーチでも、手取り足取り教えてくれるわけじゃないでしょう? 試合だって、スタメンが決めちゃった後に、のこのこ出ていくだけだし。ちょっと考えただけでも、伸びる要素はないだろうが。ちなみにおはるは、引き受けて、スプリングスにねじ込んでもいい、って」
「は!?」
「それぐらいやらないといけないぐらいの差がある、ってこった。さっちゃんの実力と全日本のレベルには、ね」
ゆらりと尋道が動いた。
「そこまで北崎さんと話ができている以上、歓送は決定しているんですね」
「さっちゃんの意志の確認と、貴重な働き手を出してもいいか、って確認が、済んでないから、決定、じゃない」
「こちらは大丈夫です」
動きだせば早い。対応を求められた男は即座に返す。
「問題は、中村さんの手前を、どう繕うか」
相手は世界一の称号を持つ男だ。その自負について、十二分の配慮が必要となる。
「慎重に検討しませんと」
「どうするんだ?」
「難しい。この場で妙案が出るとも限りませんので、持ち帰らせていただきます」
「また集まるか?」
うーん、と尋道はうなった。
「そこまではせずともよいでしょう。発想のあった方が神宮寺さんの裁可を仰ぐ形にする、ではどうですかね?」
時刻は午後九時を大きく回って、午後一〇時になんなんとしている。尋道は切り上げて帰宅したいのだ。加えて、一言居士との議論も、氏の望むところではなさそうな気配である。ならば、このできる女が、助け船を出してやろう。
「そうしようか。郷本君。手練手管、期待してるよ。また詐欺師っぷりを見せておくれ」
「人聞きの悪い。あなたは僕をなんだと思ってるんですか」
言いつつも、尋道、目礼である。助け船は安着したようであった。すなわち祥子の渡米の件も、また、安着が約束された、ということとなる。




