第六六七話 羅針儀(一六)
盛夏の候の「本家」に、珍しい来客である。須之内景だ。涼みに来た、などと言っている割りに、随分としけた面ではないか。相談事あり、と孝子はみた。
「あんまり涼しくない」
屋内に入るなり、景がつぶやいた。
「土産も持たないで、ずうずうしいやつだな」
「お昼前だし、自重したんですよ」
「言ってろ。まあ、温度については、そのとおりなんだけど」
「三〇度ぐらい、ないですか?」
「二八度」
全館空調の室温は家主の好みに設定されている。昨今の気候からすれば高めだが、居候どもに異議を唱える権利はない。
「ただ、私の部屋だけは、涼しい」
孝子の自室は防音室だ。その特性上、独立した空調システムを持つ。
「快適らしくて犬が居着くんだよね。まあ、あの部屋を選んだ功績もあるし、置いてやってる」
「何があったんですか?」
「間取り図を見てた時に、ここ、って。前足を、ぱん、って。偶然だろうけど」
「意外と、全部、お見通しだったりして」
「ないない。ただの駄犬だよ」
けしからぬことをほざいた報いだ。扉を開けると同時に、孝子はロンドの襲撃を受ける。
「聞こえてたのか。なんだ。お前。文句あるのか」
抱え上げて、なで回す。
「仲よしですねー。ああ。確かに、涼しい。二四度ぐらいですか?」
孝子に続いて入室した景は、打って変わった快さに感嘆の声を上げた。
「いや。同じ二八度」
防音室の気密性と北向き部屋の低日射が相乗し、快適な空間を作り出しているわけである。
「でも、冬場は寒くなりそうですよね」
「そのときは犬をかいろ代わりに使う」
「むしろ、ご褒美のような」
「で、何?」
どっかと座り込み、孝子は問うた。この部屋に来客をもてなす用意は何一つなく、床に直である。
「はい」
景も孝子に倣って床に腰を下ろす。
「お姉さん。長沢先生の式の招待状って届きました?」
「届いたよ」
長沢美馬と松波正治の披露宴は、一一月初旬の土曜、大安一粒万倍日に挙行される。その招待状が孝子の元に到着したのは、つい昨日だ。
「須之ちゃんのところには、まだ来てないの?」
「それ以前に、私、呼んでもらってませんし」
愛弟子の度合いでいえば、一番といってよい景を呼ばぬとは。はて、面妖な。
「式の日に、ちょうど試合があるんですよ。大学のリーグ戦が」
それでわかった。教師、長沢は公私混同を嫌ったのだ。自らの華燭の典は、あくまでも私用に過ぎず、対して教え子の試合は公用なのだ。
「ちなみに、リーグ戦とやらは、どこで、何時から?」
「場所は、うちの大学の体育館で、開始は午後一時です。披露宴は午後三時ですよね」
バスケットボールの試合時間は、正味であれば四〇分だ。しかし、種々の遅延要素により、実際は二時間前後かかる場合が、ほとんどとなる。試合終了予定が披露宴の開始と同時刻ときて、舞浜、那古野間の距離を考慮すれば、
「無理だね」
の一言でまとめられる。
「そんな冷たい」
「だって、人ごとだし。ただ、まあ、私だったら式を優先するかな。サボれ」
「先生に怒られます」
「じゃあ、辞めろ。」
「最悪、そうしようかな、って思ったんですよ。でも、私、舞浜大に推薦で入ってるじゃないですか。こういった理由で辞めたりすると、バスケ部が持ってる推薦の枠に関わってくる可能性があるんで、絶対に駄目、らしいです」
「じゃあ、知らない」
「お姉さんー」
景はにじり寄ってくる。
「あっち行け。だいたい、なんで、私のところに来たんだよ。この手は郷本君でしょうに」
「もう断られました」
では、打つ手なし、とたたき付けても景は下がらぬ。ぐちぐちとやられるうちに、孝子、だんだんと景の相手をするのが面倒になってきた。
決めた。差し戻し審である。郷本尋道に突き返す。




