第六六六話 羅針儀(一五)
尋道は、SO101にて勤務中、とのことであった。考えてみれば、当然といえた。平日の午後二時に電話をかけている。
「何事か?」
察しのよい男は、電話越しでも孝子のただならぬ様子に感づいたようだった。そのとおり。何事か、の出来である。静からの急報があった。春菜の無謀を止めてくれ、と。たわ言を言う。春菜にとっては無謀ではない。あの女を見損なうな、とたたき付けてやったら、半狂乱となって異を唱えてきたので、ぶつり、だ。
「そっちには、何も言ってきてない?」
「こないでしょう。おそらく、北崎さんに最も影響力のある方、と信じて、あなたを頼ったんだと思いますよ」
「じゃあ、私が黙殺すれば、それで終わり?」
「まだいらっしゃるでしょう。次点の松波先生が」
「松波先生なら大丈夫。私、前に頼まれたの」
周囲の無理解に嫌気を催し、天才がバスケットボールを捨てるような事態など、決して起こらぬよう、守ってやってほしい、と。今を去ること四年前の夏の話だった。
「そんな松波先生が、おはるの邪魔をするわけがない。スー公は門前払いだね」
「となると、次は、誰ですかね。市井さんかな」
松波に拒否された静は、次を当たる、と尋道は読んでいる。
「そんなに深追いするかな」
「しますよ。静さんは常識人です。北崎さんのような無法者の考えも、それをよしとする人たちの考えも、決してわかりません。神宮寺さん。手伝ってください」
「何を」
「静さんが北崎さんの件で連絡を入れそうな方たちに先回りをして、相手にするな、とお願いしておくんですよ」
騒げば、それは、『至上の天才』への無理解につながる、というわけだ。
「神宮寺さんは、北崎さんのご両親と池田さん、正村さんをお願いします。スピード勝負です。聞き入れていただけないなら、どう喝もやむなし、で」
「ほい。ちなみに君は誰を抑える?」
「市井さんでしょう。各務先生でしょう。静さんが中村さんに連絡を入れることはないと思いますけど、一応。これ、ぐらいかな。他に、どなたかいらっしゃいますかね?」
「シェリルとか。ただ、レザネフォルでの試合前に話があったらしいから、間に合わないかも。あとは、須美もん」
「ああ。ライバル的な立場の人たちですしね。あり得るかもしれません。それにしても、ああ、面倒な。僕がリリースを出すまで黙っていればいいものを。失敬。では、連絡、お願いします」
「二人とも?」
「あなたのほうが親しいでしょうに。まあ、いいです。ミス・クラウスへの連絡は承りました」
尋道の予想は的中した。彼が評したところの常識人は、見事にその手のひらの上で踊ってみせたのだ。
「お見事」
静に善処を依頼されたものの、そちらの要請どおりに拒絶し、たしなめておいた旨、各所から報告を受けた孝子が、尋道を訪ねて開口一番に放った賛辞である。
「いや。手抜かりでしたよ」
「何かあった?」
「まずは中にどうぞ。暑いでしょう。僕は暑いです」
よく晴れた夏の日の午後五時だ。まだまだ西日が強い。尋道がぼやくのも無理はなかった。従うとする。
「で、どうしたの?」
応接室で相対し、早速、問う。
「皆さん、判で押したように同じ反応をする、というので、静さんにばれましたよ。僕が裏で糸を引いている、って。ぼろくそに言われましたね」
笑いかけて、孝子は尋道の表情に気付いた。渋い。
「ごめんなさい。そんなにひどかったの?」
「まあまあ。ただ、別件に思いをはせていて、右から左だったので、それはいいんですが」
嘆息が出た。
「別件?」
「静さんの言動ですよ。北崎さんを心配するのは結構です。ただ、一般論としては正しくとも、天才論としては大間違い、ってことがありますので」
天才へ懸念を抱くとは、愚弄するに等しい。「至上の天才」が看過してくれればよいのだが。
「面倒が起こらなければいいな、と思いますよ」
尋道の予想は、再び、的中する。面倒が起きるのは、半月の後となる。




