第六六五話 羅針儀(一四)
現在のLBAが擁する黄金カードに、ことごとく絡むチームこそ、ロザリンド・スプリングスである。「機械仕掛けの春菜」こと北崎春菜の加入以来、百戦百勝を誇る強豪と、この常勝軍を攻略せんと奮戦する各チームとの抗争は、LBAの呼び物となっている。
打倒スプリングスを掲げ、しのぎを削るチーム中にあって一番手と目されるのは、レザネフォル・エンジェルスだった。根拠は、春菜がLBAのインタビューに応えて、語ったところによる。いわく、同チームのみ春菜自ら対応せざるを得ない選手が二人所属しているため、という。神宮寺静とアーティ・ミューアだ。どちらか一方と相対する間隙を突かれ、もう一方にゲームを支配される危険性があった。それに比べれば他は、ずっとくみしやすい。
さて。「機械仕掛けの春菜」印の一戦である。時は七月の末日、所はエンジェルスのホームアリーナ、ザ・スターゲイザーとくれば、相手は、もちろん、レザネフォル・エンジェルスに決まっている。今日こそは、と願い、集結した大入り満員の観客で、場内は人いきれがすさまじい。
「静さん」
ウオーミングアップ中の静の元へ春菜が近づいてきた。上下の緑は、ロザリンド・スプリングスのチームカラー、エバーグリーンだ。
「春菜さん。今日こそ、もらいますよ」
「返り討ちです。それは、いいんですよ。静さん」
「はい」
「私、舞姫を辞めますので。短い間でしたが楽しかったですよ」
この人は、唐突に、何を言い出すのだ。惑乱が口を突いて出た。
「はあっ!?」
「コーチ業を始めます」
「バスケットボール、辞めちゃうんですか!?」
「静さん、何を聞いていたんですか。私は、舞姫を、って言いましたよ。こちらは辞めません」
「なんで、舞姫、辞めちゃうんですか!?」
「あなた、人の話を、全然、聞いてないですね。コーチ業を始める、と言ったでしょう」
そう言われても、である。この衝撃を経て、平静を保てる者が、バスケットボールの世界にいるはずがない。
「コーチ業って、舞姫ではやらないんですか?」
「舞姫じゃ私のギャラを払えませんよ。伊央さんの指導が格好のデモンストレーションになって、私は一躍、一流のコーチとして注目されるようになるでしょう。以後は、お高く商売していくつもりですので」
伊央、と言ったのか。伊央健翔はサッカー選手ではないか。目の前の人は、バスケットボール選手だというのに。
「春菜さん。サッカーなんて、やったことないですよね?」
「私に不可能はありません。さあ。今に各界のプロたちから依頼が殺到しますよ。ワンレッスン一〇万ぐらい吹っ掛けてやりましょうか。いや。一〇万では吹っ掛けるうちに入りませんかね」
皮算用にふける春菜の、輝く顔に、弾む声に、静はくらくらする。ことバスケットボールに関する限りは、全面的な信を置ける相手ではある、が。畑違いの競技の、しかもコーチときた。到底、成功はおぼつかないだろう。
「春菜さん。やめてください。いくら春菜さんでも無茶ですよ。そんな簡単に行くわけがないでしょう」
返ってきたのは、慮外の声だ。
「賭けますか?」
「賭けません。春菜さん。本当に。舞姫を辞めたら半年ぐらい空きますよね。そんなに長くバスケから離れたら、最悪の場合、コーチも駄目、バスケも駄目、って可能性も」
まじまじと見つめられた。
「仮に、そうなったとしても、いいじゃないですか。あなたには関係ありません」
一転して、春菜の声も表情も、冷え冷えとしたものに変化していた。
「そろそろおいとましますよ。では」
「あ。春菜さん。試合の後、会えませんか?」
「会いません」
幻滅。
名付けるとすれば、これこそ自分に向けられた視線に、最もふさわしい名称であったろう。去りゆくエバーグリーンの背中を見つめながら、静は、そう思った。




