第六六三話 羅針儀(一二)
幸い、祥子が忍耐力を発揮する成り行きにはならなかった。車内の空気に流動があったのである。攪拌したのは孝子だ。
「骨折り、って、何?」
「『ビッグガード例外条項』」
「ああ、あ」
続いたのは、けたたましく、豪快な高笑いだった。前触れのない大音量を浴び、祥子はさっと首をすくめていた。
「高遠さん。驚かせてすみませんね。運転、交代しましょう。神宮寺さん、まだまだ騒ぐかもしれませんし。この先のコンビニに入れてください」
交代ついでに飲料の調達も行われ、改めて出発だ。
「お姉さん、どうされたんですか?」
依然として助手席からは笑声が漏れ聞こえてくる。
「話せば長くなるんですが。そうですね。事の発端は、北崎さんが武藤さんを怒らせたことなんですよ」
「お二人に何があったのでしょう?」
「以前、北崎さんが須之内さんをコーチするために、アストロノーツに加入する、なんて話があったでしょう?」
あった、が、北崎春菜と武藤瞳の相性を考慮し、内々で廃案とされたはずだった。
「あの絡みに続きがあって」
編成上の都合、とされた理由に春菜が不平を鳴らし、それが瞳の怒りを買ったとか。
「内定とか無視して、自分を取ればいいのに、つまらないチーム、なんて北崎さんが言って。お前みたいなふざけたやつは、うちに向かん、来なくていい、と武藤さんが受けて」
「はい」
後は、
「後悔しますよ」
「しない。そっちこそ、その減らず口を後悔させてやる」
このようなやりとりを経て、開戦だ。
「須美もん、須之ちゃんに声を掛けたんだよ。舞姫を倒すのに力を貸してくれ、って。で、最近の須之ちゃんたら図太くなってるものだから、私に、力を貸してくれ、って言ってきて。で、この人に放り投げた結果、生まれたのが、『ビッグガード例外条項』」
尋道の言っていた、骨折り、は、これであったか。日本リーグまで巻き込んだ一計となれば、骨だって大いに折れよう。祥子は納得した。
「でも、それもこれも、今回の話で、全部、おしゃか。郷本君には申し訳ないことをしたね。あと、意趣返しができなくなった須美もんにも」
「僕については、お気になさらず。武藤さんは、まあ、アメリカで頑張っていただきましょう。それよりも、ですよ。舞姫さんからは北崎さんを取り上げた一方で、アストロノーツさんには塩を送ってしまったわけで。そちらのほうが、大問題だ。二人して、やってしまいましたね」
孝子と尋道は、そろって喉の奥を鳴らしている。
「そのことなんですけど」
ここで祥子が披露したのは、舞姫館で起きた論戦の一部始終だった。高鷲重工アストロノーツが『ビッグガード例外条項』によって得る外国籍選手の顔ぶれを、皆で予想し合ったのである。
「カラーズさんが絡んでる、ってことで、皆、かなり有名どころを推してきたんですけど、当たってる人はいましたか?」
「まだ九月一日ではありませんよ」
九月一日は、日本リーグ各チームのロスターが発表される日だ。先方の発表を待つのが筋、というわけである。
「私にも言えない?」
「あなたには言います」
なんたる君子豹変か。断固として受け入れられない。祥子は猛然と進撃した。シートベルトを限界まで引き出し、上司たちに肉薄する。
「私にも教えてください。さもないと、お二人のせいで舞姫が大変な目に、ってばらしますよ」
「なら、お前は首だ」
孝子のどう喝が来る。
「横暴です。組合に訴えます」
「カラーズにはねえ」
「まあまあ。労使紛争は、それぐらいにして。高遠さん。口外は無用ですよ」
闘争が成功した。祥子は後部座席に座り直す。
「あの子、どこで、どう間違って、ああなったのやら」
「あそこまでふてぶてしいと、もう頼もしいですね」
何やら上司たちの間で祥子の考課が行われているようだが、聞き流す。そんな些事よりも、疾く本題に入ってほしいものであった。全く。




