第六五九話 羅針儀(八)
偉物の攻勢は続くようだった。孝子だ。先ほど尋道に委ねた主導権を再び握り、突出してきた。引き続き、どんな奇想天外が飛び出すのか。祥子は、ダイニングテーブルの隣人が浮かべる不敵な笑みに、くぎ付けとなる。
「おい。イオケン。間抜け面をさらしてるんじゃねえ。いざ『奥村ジャパン』の備えは、もうできてるでしょう?」
標的となった伊央は、けげんな面持ちになりかけて、はたと思い至ったようだった。その顔には見る間に笑みが咲き誇る。
「そうだった! 奥村! お前のチームのエースは俺な! 九番くれ! 九番!」
伊央が意気高揚となるそばで、
「なるほど。そのための親切でしたか」
一人、合点しているのは尋道だ。ナイフとフォークを手に、こくこくうなずいている、
「そのため、って何かね」
「珍しく親身になってるなあ、なんて思っていたんですよ」
「珍しく、は余計。私はいつも親身」
「ははあ」
今度は、孝子と尋道との間に、やり合いが発生する。こちらも含みのある、何が何やら、ちんぷんかんぷん、の内容であった。
「どういうお話ですか?」
しびれを切らしたのか、奥村が身を乗り出し、孝子に伺いを立てた。LDKの陣における自分への態度との相違に、祥子は彼の存念を察していたが、それどころではなかった。
「ああ。紳ちゃんたちには言ってなかったね。ちょっと前まで、私、イオケンと一緒にアメリカに行ってたの。フロリダのロザリンド。北崎春菜に会いに行きたいんだけど、アメリカに行ったことないわ、英語できないわ、で不安。付いてきてくれ、って泣き付かれてね」
孝子は言葉を継ぐ。
「最初は、なんで私がお前の恋路の手伝いをしなくちゃいけないんだ、と思ったよ。でも、すぐに発想を転換できるのが私の柔軟性。そういえば、イオケン、紳ちゃんに見切られた日本代表の一員だなあ。このままだと『奥村ジャパン』が仮に立ち上がったとしても、選出されないかもしれないなあ。カラーズに役立たずはいらないなあ」
ここで孝子はかっと目を見開いた。
「で、北崎の出番。あの子は、運動能力の天才。イオケンは、身体能力の天才。私、あの子に頼んだのさ。運動能力の天才よ。身体能力の天才を、さらに開花させてやっておくれ、って」
「北崎さんとのトレーニングって、前もやってませんでしたか?」
奥村は重ねて伺いを立てる。
「やってたけど、まだまだ足りてない、って思ったの。北崎も言ってたよ。これまでのレベルの指導じゃ、見込みなし、って」
君はサッカー神で、この人はサッカー人なんだって、と孝子は奥村と伊央を順繰りに指さす。
「だから、今後は直接、教えるんだよ。紳ちゃんも、うなっちゃうような選手にするために、北崎、イギリスに行くのも辞さず、って言ってた。盛り上がってるよ。ね。イオケン」
「うん。まさか、こんな、一気におはるちゃんと急接近できるなんてなあ。おケイに頼って、本当に、よかったよ。ありがとうな」
「おい。色ぼけ。急接近とか、どうでもいいんだよ。トレーニングだよ、大事なのは。鼻の下を伸ばしてると、おはると破局させるぞ」
「やめてくれよ!」
「ちょっと、いいですか」
尋道が騒ぐ二人を制した。
「非常に興味深く聞かせていただいたんですが、一点。北崎さんがイギリスに向かわれるというのは、いつのご予定で?」
「知らない。イオケン。いつ?」
「こっちのシーズン中に来てくれる、って言ってたけど」
「だってさ」
右から左へ、左から右へと流れた照会が返ってきて、わずかに尋道は目を細めた。と、それも一瞬のことだった。
「わかりました。なるほど。北崎さんも本気だ。確かに盛り上がってますね。『奥村ジャパン』の発足、僕も期待したくなりますよ」
温和な表情へと回帰し、是認の言葉を尋道は発している。とすれば、だ。先ほどの彼が発露させた緊迫は何に起因したものだったのか……。ただし、いくら気に掛かっても、今は、その疑念を問うべき時ではなかった。キッチンカウンターの向こうでは、奥村の母がデザートの仕上げに取り掛かっている。場には流れがある。その流れに身を委ねて、祥子は、じっと機会を待つ。




