第六五話 姉妹(一八)
ナジョガク帰りの車内は、運転席に変わらず春菜、助手席に静、そして、後部座席にはジャージー姿の佳世が乗っている。一日預かる、と松波に断って、春菜が引っ張ってきたのだ。その佳世は、うつむき加減の、硬い表情である。初見の三人との対面を前に緊張し切っているのだ。
「佳世ち。大丈夫。みんな、いい人だよ。お姉ちゃんだけは、ちょっと怖いかもだけど」
振り返って言う静は、満面の笑みで、佳世を愛称で呼ぶなど、上機嫌だ。静を喜ばせたのは、春菜の評であった。自分が春菜を意識するほどには、春菜は自分を意識してはいない、と思っていたところに、まさかライバル宣言をされるほどに買われていたとは。認められた愉悦は、計り知れないものだった。
「そうだ。行きに、静さんとも話したんだけど。池田、もうスカウトが来てるでしょう?」
「え? なんの、ですか?」
「進路。重工かウェヌスのスカウトが来てるでしょ? 私のときも、二年になってすぐぐらいで来てたし」
重工とは、高鷲重工業株式会社を母体企業とする高鷲重工アストロノーツを指す。ウェヌスとは、株式会社ウェヌスを母体企業とするウェヌススプリームスを指す。共に日本の女子バスケットボール界を代表する強豪チームだ。両チームにとって、高校最強豪のナジョガクは重要な選手の供給源なのである。実際、共に現所属メンバーの半数近くをナジョガク出身者が占めている。
「来てます」
「どっちか行くの?」
「……いえ、まだ、考えてる最中です」
「舞浜大においで。その気があるなら、松波先生には私が話してあげる」
「本当ですか!?」
もごもごとした口調が一転して、佳世の明るい声が車内に響いた。
「うん。各務先生は、さすが長沢先輩のお師匠さん。なかなかいい先生だよ。池田もやりやすいと思う」
「はい。北崎さん、ぜひ、お願いします!」
「……これは、私も景とサチとまどかを呼ばないと」
静も鶴ヶ丘のチームメートの名を挙げる。
「そうなったら、いいですね」
「あ。なんか、冷ややかなコメント」
「いえ。大学ともなると、学費とか、生活費とか、いろいろありますから。池田の家には、一回だけ遊びに行ったことがあって、いい家に住んでたんで、大丈夫とは思ってるんですけど。舞浜大も国立ですし」
この春菜の言葉は、発言者の予想以上に静に痛撃を与えた。チームメート三人の、家庭の事情を詳細に把握している静では、もちろんない。しかし、とっさに思い浮かんだのは高遠祥子のことだった。祥子は、おそらく進学しない。できないだろう、という認識がある。
祥子の家は「鶴や」というラーメン店だ。静も、たまに顔を出すが、まずまずの味で、まずまずの客の入りの、古い、汚い店である。もうかっている、という地点までは到達していないらしいのは、祥子のやぼったい私服姿や、今どき珍しいスマートフォン不所持の高校生、というあたりで、なんとはなしに想像できる。ちなみに、静もスマートフォンを持っていないが、これは、母親の教育方針によるものだ。
黙りこくってしまった静に、春菜も佳世も、以後は鳴りを潜める。やがて田園風景の中に、浮島のような北崎家の家屋が見えてきた。
「あれ、麻弥ちがいる……」
「確かに、正村さんですね」
北崎家の敷地からは少し離れた農道に、しゃがみ込んでいる麻弥の姿があった。
「正村さん、どうされましたか。そんな所で、暑くないですか」
農道に車を入れ、降り立った春菜が声を掛けた。まだ時刻は午後六時前で、辺りは十分に明るく、気温も高い。
「……むしろ、寒い」
畑のほうを向いたまま、麻弥は視線を動かさない。
「どうしたの、麻弥ち……?」
普段とはまるで違う麻弥の弱々しい様子に、静も車を降りて隣にしゃがむ。
「……メロン、食べ過ぎた」
「……じゃあ、那美も?」
「……あいつは、トイレに入りっ放し。孝子が怒る、怒る」
「そりゃそうだよ」
あきれ返った静が視線を移すと、しゃがみ込んだ麻弥の身に着けたポロシャツとデニムパンツが、それぞれ上下にずれて、黒いショーツがのぞいている。
「麻弥ち。パンツ、見えてる」
「……エロ静」
「見たんじゃないの。見えてるの」
静は裾を引き下ろそうとするが、麻弥の非協力的な態度で奏功しない。
「これ、どうぞ」
車を降りてきた佳世が、ジャージーの上着を麻弥の肩から掛けた。一八九センチがまとっていたものだけに、ジャージーは麻弥の尻までをきれいに覆った。
「……おっす」
ちらと見やって、麻弥は右手を上げる。
「……私には構わないでいいよ。というか、構うな。話してると、こみ上げてきそうになる。行って」
そう言って、麻弥は視線を戻す。本当に大丈夫ですか、と春菜が言っても、もはや反応すらしない。仕方なく三人は車に戻り、北崎家の敷地に向かう。途中、振り返って静が確認しても、麻弥は全く同じ姿勢のままだった。