第六五八話 羅針儀(七)
待望久しい瞬間は、およそ五〇分後にやってきた。ドアホンの音が響き、奥村の母の応対に続いて、到着を告げる上司たちの声だ。力戦が果て、祥子は一息をつく。
「遅くなりまして、誠に申し訳ない。しかし、あえて、言おう。悪いのは、おケイ。悪いのは、おケイ」
LDKに入室してきた伊央が唱えると、
「うるせえ」
孝子がうなる。
「どうされたんですか?」
「会見はショールームであったんですけど、そちらの隅っこにドライビングシミュレーターがありましてね」
尋道が苦笑交じりに付け足す。
「ドライビングシミュレーターというと、教習所にあるような?」
「ええ。今日のは、VRゴーグルを使った本格的なやつでしたけど。で、サーキット走行を体験できる、っていう。スピードを出し過ぎて、この人、コーナーで飛んでましたよ」
示された孝子は高笑いだ。
「あれは、死んだね」
「俺の会見そっちのけで遊びほうけるわ。しまいには、お前らだけ帰れ、とか言い出すわ。とんでもないやつだよ」
「仕方ない。楽し過ぎたんだよ」
「まあまあ。まずは席に着きましょう。
ホームパーティーのテーマは、一に、先般の引っ越しに関わったカラーズ勢への謝恩、二に、サッカー、イギリスリーグの新シーズンを控えたベアトリス三人衆への壮行、である。一が膨らまし甲斐のある内容でもない以上、必然的に会話は二を中心に進む。
「伊央さん。いい景気づけになったよね。大企業のブランドアンバサダーなんて」
奥村の母が手ずからのコースを次々に平らげながら、佐伯だ。
「今日のワタゲンだけじゃなくて、昨日も、どこか行ってませんでしたっけ?」
「エライスだな。明日も行くぜ。日空輸」
「エライスに日空輸! いいなあ。僕なんか、なんにもなかったのに」
意外の告白に祥子は佐伯の顔を見直した。
「佐伯さん。そうなんですか? 世界選手権で、得点、取ってましたよね? 一試合で、三点か、四点」
「結局、あれだけだったしね。その程度じゃ、得点王には勝てない」
「次で、ぶち抜け」
嘆き節を喝破したのは孝子である、
「次は、ないんじゃないかな。だって、今の代表、奥村君に見切られたし」
奥村がサッカー日本代表に対して絶縁を告げた件は、空前絶後の一大事として、サッカーとは縁遠い祥子の耳にも入っていた。いわく、底の見えたチームに付き合っている暇はない、所属チームでのプレーに専念させてもらう、だ。
「奥村君抜きじゃ、よくてベストエイトだね。そんなので、ベストフォーの得点王に及ぶわけがないよ」
「ああ。あれ、もしかしたら、撤回があるかもしれない」
「え?」
会話の切れ目、と思って間延びしていた佐伯が、はっと身構えた。
「郷本君。説明して」
孝子に指名された尋道は、しょぼしょぼとした目で一堂を見渡す。
「カラーズ、というか神宮寺さんが、天才、奥村紳一郎に影響力を持っているらしい、と知られだしていましてね」
奥村は、傑物だ。彼が、その異能を遺憾なく発揮したとき、世界選手権の優勝とて難事ではなくなる。一方で、この男、ご多分に漏れず、らしさに満ちあふれていた。およそアスリート的なポジティブさは薬にしたくもない。大難物といえた。
そこに、孝子、である。彼女を通じて奥村を御するべし、とサッカー界がもくろんでくれれば、
「こっちのものです。逆手に取って、いろいろ仕掛けますよ。うまくいけば、カラーズも、いい目が見られるでしょうし」
条件闘争の末に成立するのが奥村の絶対王政だ。選手の専任から、戦術の選定から、奥村なりの知見に基づいて組織される日本代表は、「奥村ジャパン」と称してよい。
「『奥村ジャパン』っていうのは、奥村君が監督をやる、って意味?」
問い掛けてきた佐伯に対し、尋道はかぶりを振った。
「選手と監督の両立は、いくら奥村君でも厳しいかと。なので、そこは、かいらいを置く必要があるでしょうね」
「かいらい? じゃあ、今の監督はどうするの?」
「更迭します」
「なんで!?」
「だって、奥村君を擁していたとはいえ、日本代表を世界選手権のベストフォーに導いた方じゃないですか。自負だって、大いにおありでしょうし。天才は、自在に動いてこそ、なのでね。要するに、奥村君の邪魔になる可能性が高いので更迭させていただきます、ということです」。
いけしゃあしゃあと言い切った尋道に、祥子以下四人は、あぜんぼうぜんとするしかない。一切の動揺が見られない孝子以下三人との奇妙なコントラストが、そこには発生していた。




