第六五七話 羅針儀(六)
高遠祥子にとっての状況は切迫したものになっていた。未知なる強豪と相まみえるアウェー戦だというのに、頼りになる上司たちは不在で、三重苦といってよい。七月末の昼時、「双葉の塔の家」は奥村宅におけるホームパーティーへの出席が、このような事態を招くとは、だ。
三週間ほど前に奥村家の引っ越しを手伝ったことがきっかけとなった。アスリートの体力を駆使し、八面六臂の活躍を見せた祥子に対する印象が強かったらしい。新居の整理整頓が一段落した時点で、奥村の母より、特に名指しで声が掛かったとか。
それはいい。ありがたい話といえた。問題は、同じく奥村宅に招かれた上司たち、神宮寺孝子と郷本尋道が、そろって遅刻している点にあった。二人は、渡辺原動機株式会社のブランドアンバサダーに就任した伊央健翔に付き添い、同社の東京本社まで出向いているのだが、そこからの帰りが遅くなっていた。結果、定刻どおりに奥村宅を訪問した祥子は、三重苦の立場に身を置く羽目に陥ったわけだった。
しかし、である。いくら不慮とて黙りこくってやり過ごすなど、カラーズ社員の沽券に関わる。打って出ねばならなかった。幸いにして、この場にいる人たちとは共通項が存在した。母校、舞浜市立鶴ヶ丘高等学校だ。奥村紳一郎と佐伯達也は同窓の先輩で、ホームパーティーの主催者は、前者の保護者に当たる。LDKの陣、なんとか乗り切れるだろう。
「お二人は、お姉さんと同い年ですから、私よりも三つ上になるんですね」
早速、始める。
「そうなんだね。後輩っていうのは聞いてたんだけど、どれくらい後輩かは知らなかった」
応じたのは佐伯だった。奥村のほうは、といえば、ほとんど反応を見せぬものの、この人は奇人変人で知られる逸物である。返ってこぬ、と割り切りつつ、佐伯にばかり向き合わぬよう配分していけば、不自然には映るまい。
「担任は、どなたでした?」
「僕たちは、ずっと君たちの顧問だった人」
鶴ヶ丘高校女子バスケットボール部の顧問といえば、言うまでもなく、長沢美馬だ。
「私もなんですよ。三年間、ずっと。あ。佐伯先輩。長沢先生が、ご結婚なさるのは、ご存じですか?」
「いや。知らない。ていうか、独身だったんだ。でも、そうか。あれだけ強い女子バスケ部の顧問とかやってたら、プライベートとか、ほとんどないか」
「今は、もっと強い高校で顧問をされてますよ」
ほぼ、佐伯と、ついでに奥村は、かつての担任の動向に通じていないようだった。主導権が握りやすい。ということは、つまり、場のコントロールがしやすい、ということにつながる。これでいく。
「どこの学校?」
「那古野の那古野女学院っていう」
「あら。長沢先生、なんだって、そんな遠くに? 転勤、じゃないよね?」
奥村の母の興味も引いたようであった。よい兆候といえた。
「長沢先生、新任以来、ずっと鶴ヶ丘で、もう異動、ってタイミングでの転職ですね。次の学校でもバスケットボールを続けられるか、わかりませんし。で、最初は私たちのチームの神奈川舞姫にいらっしゃる予定だったんですよ。けど、那古野女学院から声が掛かって」
「行っちゃったの?」
「どちらかといえば、行かされた、と聞いてます」
「誰に?」
「お姉さんに」
お姉さんこと神宮寺孝子の名が出た瞬間に、奥村の顔が祥子に向いた。何事か、と思案しかけるも、知らぬふりをしておく。
「いい話じゃないですか。行ってください。いや、行け、って」
「あの人の押しの強さって、相手を選ばないんだ?」
「みたいです。で、長沢先生のお相手っていうのが、その那古野女学院に松波先生って、高校の女子バスケで、すごい有名な方がおられるんですけど、その方のご子息で」
「その人も先生なの?」
「いえ。ナジコにお勤め、って聞いてます」
おお、と、関心の薄そうな声が返ってきても、知らぬ。他に、この人たちと分かち合える話題は、持ち合わせていない祥子なのだ。
「長沢先生、式は? もう済んじゃった?」
なんとか絞り出した、といった体で佐伯が言う。その努力は、ありがたい。
「一一月に。私たち、バスケのシーズンが始まっちゃってて、多分、出られないんですよね」
「ああ。じゃあ、お祝いを託そうにも、無理か。やっぱり、郷本君かな。ねえ。奥村君」
「え?」
全く、聞いていなかったのだろう。再び、無反応となっていた奥村が奇声を上げた。先ほど、突如、見せた動きはなんだったのやら。
「いや。なんでもないよ」
慣れたもののようで、佐伯は、さっと切り上げ、顔の向きを転換した。
「高遠さん。郷本くんたちが来たら、話、聞いてみるよ。教えてくれて、ありがとう」
黙礼のついでに、壁掛けの文字盤を見やる。五分。まだ、五分。祥子の戦いは、続く。




