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未知標  作者: 一族
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第六五二話 羅針儀(一)

 それは、国際便への搭乗を控えた孝子と伊央が、東京空港に詰めていたころのことになる。午後の練習が開始間近とあって、慌ただしい舞姫館に、ふらりと須之内景が顔を見せた。

「お邪魔しまっす」

 声に、高遠祥子は、顔を上げ、カラーズ島から席を立った。高校時代の先輩にして、近い将来、カラーズでの同僚となる人を迎えるため、エントランスホール兼オフィスの玄関に走る。

 と、その祥子を追い抜いていった人影があった。舞姫副社長兼マネージャーの井幡由佳里だ。

「おおー。須之内。よく来た!」

「ご無沙汰してます。何気に敷居が高かったりしたんですが」

 景には、内定していた舞姫への加入を豪快に蹴っ飛ばした弱みがある。

「何を言ってるの。気にせず遊びにおいで」

 そして、井幡には、縁遠くなった親会社との距離を詰めたい、という弱みがある。

「そうですか? まあ、今日は、大した用じゃないんで。高遠。カラーズの社用車、使うから。鍵は郷本さんに預かってる。じゃあ」

「あ。須之内先輩。お時間は大丈夫ですか? よろしければコーヒーをいかがですか?」

 双方の弱みを知る祥子が、今回、付くのは井幡の側だった。

「いいね。飲んでいきなさいな」

 察した井幡も同調してくる。

「そうですか?」

 承諾を得て、祥子は景をカラーズ島に導いた。コーヒーの抽出には井幡が向かった。必然的に待ちの間の接待は祥子の役目となる。祥子は景の傍らにしゃがんだ。

「須之内先輩。あの、念のため、お伺いさせてください。カラーズの車、マニュアルですけど、大丈夫ですか?」

「カラーズは、普通免許がいい、って前に聞いていたんで、一応、限定解除はしてある」

「そうだったんですね。失礼しました。あの、今日は、どうされたんですか?」

「郷本さんの代わり」

 尋道の代わり、というと、野球少年の伊澤浄を高鷲重工硬式野球部の練習に参加させるべく送迎する、あれか。確か、この日は尋道に別件があり、送迎は浄の母親が、と勤怠管理システムには記されていたが。

「うん。割り込んだ。アピールしたいじゃん」

「はあ。部活は、いいんですか?」

「それ以前に、今は、多分、考査が始まってると思うんだけど。須之内ー?」

 舞姫島から飛んできた声は、舞浜大学女子バスケットボール部OG、土居だった。

「うっす。私、考査がある講義は、もう取り終わってますし、採用試験は受けないので、だいぶ、暇なんですよ」

「だったら、いいけど」

「そういえば、須之内って、大きな車に乗ってたよね。あれは、どうしたの?」

 もう一人、舞姫フロントに所属する舞浜大学女子バスケットボール部のOG、権藤が言った。

「うちの車、ナジコなんです。あの車で重工の施設に行っても、中に入れてもらえないぞ、って郷本さんに言われて」

 自動車工業分野において、高鷲重工業株式会社がナジコ株式会社に抱く、激烈な対抗意識は、つとに有名であった。

「なので、社用車を使え、と」

 ちなみに述べれば、カラーズの社用車は高鷲重工製でもなければナジコ製でもなく、渡辺原動機製だ。重工近縁のカラーズが、渡辺原動機のマニュアルトランスミッション車を所有しているのには事情があった。マニュアルトランスミッション車を偏愛するCEOが率いるカラーズと、マニュアルトランスミッション車の製造から撤退して久しい高鷲重工との背反を折衷させられるのが、マニュアルトランスミッション車を製造し続ける、カラーズの提携企業にして高鷲重工の協業相手だった、というわけだ。

「ああ。そういう、ね」

 一区切りとみたのだろう。井幡が淹れたてのコーヒーを運んできた。

「ありがとうございます。ああ。もう、大丈夫ですよ。そろそろ練習ですよね? 飲み終わったら片付けておきますから」

 祥子の隣に並んでしゃがみ込んだ井幡に向けた景のせりふだった。

「まあまあ。気にしなくていいよ」

「あ。コーヒー、いただきます」

 一口、含んで、景がつぶやいた。

「ちょっと緊張してきた」

「浄君ですか? 素直で、いい子ですよ」

「いや。そっちじゃなくて。公道をマニュアルで走るの、今日が初めて」

「えっ!?」

 すっとんきょうな声を上げた井幡は、自動車通として知られている人物だった。

「須之内。いきなりは危ないよ」

「そうですか? まあ、講習でもエンスト、結構、やったんで、正直、不安ですけど」

「もう。無茶をして。でも、まあ、わかる。郷本君は、カラーズさんで、一番、気を使わないといけない相手よ。なんてったって、カラーズさんを実質的に動かしているのは、あの人だもんね」

 やがて井幡が提示したマニュアルトランスミッション初心者への処方は、彼女の車を貸与する、となる。井幡が所有する車は高鷲重工製のEVだ。カラーズの社用車より自然に高鷲重工の施設へと進入できるし、万が一、尋道に見とがめられた場合でも、井幡の勧め、と言い訳が立つ。

 かくして景は膝を打ち、一件は落着、となった、はずだった。

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