第六四話 姉妹(一七)
ほぼ同時にソファを立ち上がった静と佳世が松波に歩み寄った。
「松波先生! 春菜さんを引き止めてくれて、ありがとうございます……!」
「北崎さんがいなかったら、私、もう、バスケやってなかったかもしれません。松波先生、ありがとうございました!」
「二人とも、大げさな」
松波の述懐に感極まった二人に、春菜は冷淡だ。自分の分を食べてしまい、佳世の分の茶菓子に手を出している。
「ただ、そこからも大変だったよ。何しろ、この子は、やる気を出さない」
神技の持ち主でありながら、あっさりと小学校の時点でバスケットボールを離れかかった、競技への執着のない春菜の扱いには、松波も苦労させられた。その最たるものは、勉強優先のため、平日に実施される試合には出場しないことだった。それは、国民体育大会のような大きな大会も例外ではなく、実際、中学三年、高校一年ではチームへの参加を拒否し、ようやく顔を出したと思った高校二年時には、途中でチームを抜けている。
「神奈川が負けて、神宮寺さんと対戦できないとなった瞬間に、帰り支度を始めてね」
「え……」
確かに、春菜の高校二年時は、静の高校一年時で、その年の国体に出場した神奈川県選抜チームは初戦で敗退している。
「春菜さん。そんなことして、怒られなかったんですか……?」
「怒られませんでしたね。愛知の女子バスケには、大抵、松波先生が関わっているので。松波先生の威を借って、それはもう」
「本来は、実力があれば、何をしてもいい、みたいな考えは好きじゃないんだが。この子だけは次元が違うんだ。全部、許したよ」
試合の出欠だけではなかった。ナジョガクではバスケ部員は全員が寮に入ることが大原則である。しかし、春菜は、嫌だ、と言った。松波は、これを認めた。元旦に活動初めを行う伝統にも、春菜は、うちでお雑煮を食べるので行かない、と言った。松波は、これも認めた。全ては「至上の天才」の気まぐれを恐れるが故であった。
風向きが変わったのは、春菜が高校二年生時の高校総体が終わって、間もなくだった。初顔合わせとなった神奈川県の公立高校の、未来のエースについて、珍しく冗舌な春菜がいたのだ。
「お手紙をいただきましたよ。鶴ヶ丘高校の神宮寺静さん。私に、いつか、勝つそうです。いいですね。あの子が順調に成長すれば、もしかしたら、負けるかもしれません。楽しみなので、静さんを私のライバルに認定して、成長を見守りたいと思います」
ありていに言えば、当時の松波の目に神宮寺静は、「スイッチシュート」という変則技だけの選手、としか映っていなかった。選手としての資質は、春菜に遠く及ばぬように思えた。故に、勝利宣言など噴飯もの、といったところだが……。松波は教え子の予言に、余計な論評を加えなかった。全て認容すること。これが彼の春菜に対する一貫した指導方針なのだ。よって、この所見について、松波は今も明らかにはしない。
「私が、春菜さんのライバル……?」
「おや。言ったこと、ありませんでしたか」
「ないです! ……それは、周りがライバル的な見方をしているのは知ってますけど、少なくとも春菜さんには、そんなふうには見られてない、と思ってました。まだ差があり過ぎて」
「うん。始めのうちは私も半信半疑だったよ。ところが、国体のチームに入るわ、神奈川が負けたら帰るわ、で。本当に神宮寺さんにこだわってる、と知ってからは、私も神宮寺さんと鶴ヶ丘さんを注目するようになってね。しかし、春菜。慧眼だったな。いい選手なのはわかっていたが、今や神宮寺さんも日本で五指に入るポイントガードだ」
「五本は多過ぎます。大至急、一本になっていただかないと」
「簡単に言うが、美鈴とか、まだまだ上には上がいるぞ」
松波が挙げたのは、同校の誇るOG、全日本女子バスケットボールチームのスターティングガード、市井美鈴の名だったが、春菜は首を横に振ってみせた。
「私のライバルなら、美鈴さんごとき、あっという間に屠っていただきます」
「先輩に向かって、なんてことを言うのだ」
「お話になりません。私を誰だと思っているんですか。世界二位の名手ですよ」
「一等は、誰だい……?」
「シェリル・クラウス。あの人にだけは、逆立ちしたってかなわないでしょうが、それ以外なら、なんてことはありません」
全日本のエースガードに、アメリカの伝説的名手と、次々にとんでもない名前が出てくる。
「静さん」
「は、はい」
「あなたが挑んだのは、それほどの私なんです。美鈴さんなんて、さっさと超えちゃって、日本で、ではなくて、世界で一本のポイントガードになってくださいね」
「簡単に言うが、春菜。ずっと一緒にいて、わかってるだろうが、美鈴も簡単な選手じゃないぞ」
「向上心のない人に興味はありません」
「春菜。美鈴の、どこに向上心がない?」
「私に挑んでこないじゃないですか」
春菜以外の全員が動きを止めた。独演の始まりだ。
「世界最高峰の私が身近にいたのに、あの人は、私に挑戦してこなかったでしょう。すなわち、あの人には向上心がないんです。翻って、静さんはたった一度の邂逅で、私を認め、挑んできました。静さんには、上を目指す強い気持ちがあります。私は、そういうものを尊ぶ女ですよ。忘れないでいただきましょう」




