第六四三話 週末の騎士(一八)
名を、呼ばれた。少し遠い気がした。目を開いても誰もいない。半身を起こすと、SO101の入り口に尋道の顔があった。
「おはようございます。入っても?」
「いいよ。というか、ここの主でしょう」
「今は、あなたの寝間ですし」
つぶやき、失礼します、と、お堅く尋道は室内に入ってきた。
「気にしないのに」
起き上がり、スマートフォンで確認したところ、「8:45」の表示である。
「まだ表に車があったので、さては、優雅にモーニングを召し上がっているのかと思っていたら、違いましたね。ショックで倒れ伏していたわけではないでしょう?」
「まさか。イギリスとは、一〇回やったら一〇回負けるぐらいの差があったし」
あんなものでショックを受けたりはしない。普通に二度寝しただけだった。
「ああ。そちらではなくて」
では、どちらだ。こちら、とやらの提示を孝子は促した。
「奥村君が、会見で、日本代表では、もうやらない、と言ったんですよ」
日本代表の限度が見えた。これ以上は付き合えない。ベアトリスでのプレーに切り替える。どこかで聞いたような言い回しに、孝子は噴き出していた。
「大騒ぎになっているようですね」
「だろうねえ。時に、郷本君や」
「はい」
「聞いておくれよ」
一時間ほど前に奥村と交わしたやりとりを、孝子はできるだけ正確に再現してみせた。みせた後には身構える。苦言への備えだった。
「ははあ。らしいじゃないですか」
苦笑いのみとは、予想外の穏当な反応に、孝子は驚いた。
「嫌みの一つも言われるかと思ったのに」
「言いませんよ。天才二人が思うさまに振る舞った結果です」
二人目の天才には孝子を擬しているのだろうが、個人の信心に難癖をつけることはやめておく。ただ苦笑いで報いるのみだった。
一方、苦笑いでは済まなかった者たちもいる。そのうちの一人からの通信が、帰りしなの孝子の元へ届いた。
「お。氷室さん」
SO101を立ち去りかけていた孝子は、きびすを返してワークデスクに着く。
「奥村君絡みで?」
執務中だった尋道が手を止めて尋ねてきた。
「多分」
予想は的中し、というより、およそサッカーにかかずらう者が、今、この時、奥村の件以外に話題のあるわけもなかった。
「何か聞いてるか、だって」
「何も聞いてない、と返してください」
見ると、尋道もスマートフォンを取り出して、何やら操作中だ。
「そっちは何をしてるの?」
「奥村君に、あなたに言われたので日本代表をやめた、とか口を滑らせないように、くぎを。ことがことです。ばれたら、爆発しますよ」
尋道は顔を上げずに言った。
「ほい」
やがて無言の時間は果て、期せずして孝子と尋道の視線が合った。
「こちらは完了しましたが」
「こっちは、まだ」
「なんとかならないか、ですか?」
「だね。ここに来かねない勢いだったけど、取りあえず、落ち着いて、と。後で行ってくるよ」
先方が午前の練習を済ませたころを見計らって、舞浜F.C.グラウンドを訪問する。
「僕も行きましょう」
「お。布石を打ちに来る?」
「いえ。今回は、見届け、ですね。なんとなく、何か、ありそうな気がするので。もちろん、打てるようなら打ちたいところですが」
そう言って尋道はにやりとした。孝子が、何か、やらかすと予想しているのだ。とんでもないやつだった。ならば、思うさまに振る舞って、せいぜい尻拭いをさせてやろうではないか。
孝子はいったん帰宅し、尋道は執務に戻る。待ち合わせは正午きっかり。舞浜F.C.のクラブハウス前にて。以上を定めて、二人は別れた。




