第六三四話 週末の騎士(九)
そもそも、憤激していたわけではない。故に、長く続いた攻防が、いつしか脱線し、あさっての方向に向かったとしても、なんら不思議はなかった。
孝子と尋道が、伊央健翔のサインは、いくらで売れるのか、というらちもない話題に興じていた時になる。SO101になだれ込んできたのは、那美以下三人の大学生たちだった。はや昼時なのだ。
「うぎゃー。またケイちゃんがいるー。追い出されるかもー」
「おう。出ていけ。大事な話をしてる」
「どんなー?」
ワークデスクに着いて、キャンディーバーをやり始めながら那美が問うてくる。
「イオケンのサインを売ったら、どれくらいになるんだろうね、って話」
「ケイちゃん。なんで伊央さんのサイン売るの?」
「損害賠償」
え、と大学生たちが固まる。
「伊央さん、何かやらかしたの?」
「やらかしたよ。あのばかたれが」
「え。いつの話です? 伊央さん、イギリスですよね。昨日も大活躍してましたし。私、夜更かしして、見てましたよ」
景が弁当をぱくつく合間で会話に加わってきた。
「その試合だよ。須之ちゃんは、結構、真面目に見てた?」
「はあ。まあ」
「あの男のガッツポーズ、変じゃなかった?」
箸を休めて景は思案顔だ。昨夜の記憶をたどっているのだろう。
「ああ。旗が、どうこう、っていう。試合後のインタビューで言ってましたね」
それ、だ。孝子はスマートフォンを取りだした。
「那美ちゃんが英語できるのは知ってるけど、二人は、どうだっけ?」
指名された景と佳世の首は横に振られた。
「訳さないよ。後で那美ちゃんに聞きなさい」
言いつつ、『Banneret』をかけた。
「で、ケイちゃん。この、『Banneret』が、どうしたの?」
前のめりとなって聞き入ってた那美が、そのままの姿勢でつぶやいた。
「イオケンが、欲しい、って言ったから、作ってやったやつなんだけど、あのばか、ぽろり、しやがって」
「あー!」
景が叫声を上げた。
「おっしゃってました! ファンの子からもらった曲をヒントにして考えたパフォーマンスだ、って!」
「そうだよ。誰が、ファン、だ。てめえが頼んできたんだろうが」
「それで、サインを売って損害賠償ですかあ」
「ただ、あの方、気前よくサインするらしいので、高値にはならないっぽいんですよね」
四人がわいわいやっているそばで、那美は孝子のスマートフォンを片手に、もう一方には自分のスマートフォンという体勢で、何やらごそごそやっている。
「そこの君は、何をやっているのかね」
見とがめた孝子はただした。
「こっそり『Banneret』をいただこうとしてる。かっこいい」
「こっそりしてないじゃないかね」
「ばれたか」
「金、払えよ」
「出世払い」
当てがあるのか、と問えば、その答えが奮っていた。
「私、そのうち、名医になるし」
那美は畳み掛けてくる。
「ケイちゃんの主治医になってあげる。予約の取れない名医になってもケイちゃんが最優先だよ。しかも、永年無料で。ラッキー」
実現の可能性があるのは、主治医のくだりのみではないか。お調子者め、と思わなくはないものの、
「まあ、いいか」
孝子は容認した。
「ねえ。フォルダーに知らない曲があるの、これも、もらっていい?」
「ああ。『Voyage』が二つあると思うんだけど、新しい方だけは駄目。それ以外ならいいよ。あと、門外不出ね」
「なんで、二つ目の『Voyage』は駄目なの?」
「神聖な曲なんだよ」
言ってる途中で笑いが込み上げてきた。先刻の、尋道との会話が思い起こされたのだ。
「神宮寺さん。もうお帰りになってはいかがですか。というか、帰ってください」
「ええー。もう、悪かったよ、笑って。ごめんなさい。おわびに栄養ドリンクをおごるよ。お昼休みにしようよ」
「わかりました」
「あ。待ってください。お姉さん。私も曲が欲しいんですけど」
「それどころじゃない」
すがる景と佳世を突き放して孝子は立ち上がった。直ちにSO101の入り口に走り、ドアマンよろしく扉を開く。二度目の一笑は我ながら軽挙であった、と思う。この上は尋道の不快が募らぬよう、恭謙に振る舞うのみだ。くわばら、くわばら。




