第六三二話 週末の騎士(七)
『Armada』の鑑賞会から一夜明けた翌日、昼下がりのSO101である。この時間を孝子が選んだのは、大学生たちを避けるためであることは、言うまでもなかった。
「いやっほーい」
「なんで、そんなにご機嫌なんですか」
出迎えた尋道は、いぶかしげな表情を浮かべている。
「曲、送った」
それぞれの依頼主の元へ、伊央健翔に『Banneret』を、川相倫世に『Armada』を、だ。
「たむりん、大興奮。かっけー、って」
「それは何よりでした」
「次のホームゲームから川相さんに使わせる、って言ってたよ」
ベースボールプレーヤー、川相一輝が所属するアメリカプロ野球のシアルス・ウイングスは、現在、遠征中だとか。
「ウイングスの次のホームゲームは、少し先ですね。忘れないようにしないと」
「あと、傑作なのは、イオケン。あの男、英語わからないの。だから、訳してくれ、って電話してきて」
「訳してあげたんですか?」
「あげるわけないでしょう。自分でやれ、って。できないなら、返せ、って」
途端に、尋道は渋い顔だ。
「伊央さん、今日、試合ですよ」
「知るか」
尋道の表情が渋みを増す。
「まずい。怒られる。わかったよ。訳を送るよ」
「お願いします」
たよたよとして孝子はワークデスクに着いた。
「あーあ。次があったら、英語のわからないやつには、やらない」
伊央宛てのメッセージを作成しながら孝子は愚痴った。
「それがいいでしょうね。それにしても、岡宮鏡子さん、アスリートと縁がありますね。この分なら、次もアスリートですか」
静の『指極星』、奥村の『週末の騎士』、伊央の『Banneret』、川相の『Armada』と、順に尋道は岡宮鏡子の孝子が人に贈った曲を挙げていった。
「あ。一つ、抜けてる」
言って、想起した。シェリル・クラウスに贈った『Voyage』の存在を、尋道は知らないはず、と。
「忘れてた。ごめんなさい。マネージャーを通さずに剣崎さんに頼んだ曲があってね。『Voyage』っていうんだけど」
「段取りが必要ないのであれば、僕を通す必要はありませんので、そこはお気になさらずに」
「うん。でも、次からは気を付けます。で、その、『Voyage』、ね」
先のユニバースで、全日本女子バスケットボールチームに敗れたシェリルが、自らの年齢を鑑みて、雪辱の機会は訪れぬ、と引退を決意した際である。その弱気を叱咤し、再起を奨励する歌が、『Voyage』だった。
「というのも、アートが、べそをかいてさ。シェリルが引退しちゃうのー、って」
しらじらしい泣きまねを孝子は挟む。
「なんだか、ふびんになって」
「で、お節介を焼いた、と」
「そうそう。ああ。せっかくだし聴かせてあげるよ。シェリル以外だと、剣崎さん、トリニティの人、あとは、たむりんしか聴いたことのない逸品を」
孝子はスマートフォンを取りだして『Voyage』をかけた。
長い時間がたった
畏れを知らぬ若者が 分別のつく年齢になるくらいの
航海を終えるべきときなのだ
「彼女」も同意するはずだ
船体は朽ち 帆だってぼろぼろになった
もはや長い旅には耐えられない
グラスの用意をしてくれ
最高級のやつを開けよう
これまでの海路に乾杯だ
偉大な航海は終わった
ひどい見当違いだ
老いさらばえたのはあなただけ
「彼女」はどんな大波にも負けない
あなたさえ旅立つ勇気を持てば
世界にはまだ多くの大洋がある
そのうちいくつを巡った?
アルバムを繰るには早過ぎる
行こう 「彼女」が出航の合図を待っている
グラスの用意をしてくれ
最高級のやつを開けよう
これからの海路に乾杯しよう
偉大な航海は終わらない
さほど長い楽曲ではない『Voyage』の再生が終わった三分一二秒の後だった。微動だにせず聞き入っていた尋道が、ため息交じりにつぶやいた。
「いいですね」
「でしょう」
「特に、メロディーがいい。厳かで、気に入りました。僕の葬式でかけたいような」
突然、何を言い出すことか。
「予定、あるの?」
「あと五〇年は粘りたいんですがね」
孝子は失笑した。
「じゃあ、あげるよ。お葬式版を作って、あげる。五〇年後まで大切にしておけい」
言ってから、失笑の追加となる。全く、たわいない。実に、たわいない一幕であった。




