第六二四話 緑の日々(二六)
待ちに待った商談の日だった。郷本尋道氏が購入を予定している商用車の、である。自分のものでもない商取引にときめく理由は、試乗車として用意されているという車中泊仕様にあった。入念な下調べの結果、買いだ、と孝子は判断していた。尋道には、なんとしてでも同仕様で買ってもらう。買ってもらって、借りて、乗り回す。古里との往復行に使ってよい、と認められていたので、納車され次第、遠慮なく、などと孝子の鼻息は荒い。
かよう気合い十分のありさま故に、五月下旬の土曜日、孝子が郷本家を訪ねた時刻は、勇み足のそしりをまぬがれないものとなった。
「ディーラーの開店時間、一〇時ですよ。あと、一時間近くある」
「接待」
厚かましい物言いに、尋道は首をすくめる。
「どうぞ」
応接室に通された。勝手知ったる部屋に、たちまち孝子はくつろぎの姿勢となる。
「コーヒーで、いいですか?」
「お構いなく。甘めで」
「どっちですか」
失笑とともに去った尋道は、五分ほどして戻ってきた。孝子の眼前にコーヒーが供される。時節柄のアイスだ。
「ありがとう。こういうやつが出てくるころか。夏も近いね」
グラスを掲げて孝子は謝した。
「ええ。この先は暑くなっていく一方で、考えただけで、げんなりしますね。ああ。接待とおっしゃってましたが、思い付かないのでレコーディングの話をしていいですか?」
尋道を通じて音楽家に打診していた岡宮版『週末の騎士』のめどが立ったらしい。
「いつ?」
「あさってで、お願いします」
あさってといえば、孝子が想定していた締め切りの当日だ。
「ほい」
「動じませんね。かなり慌ただしくなりそうですが」
「歌うのなんか、私、一〇分もあれば終わりますもーん。慌ただしくなるのは、おっさん」
確かに、と尋道はうなずいた。
「できれば、紳ちゃんに、直接、渡してあげたいけど、おっさんの手際次第では、送り付けることになるかもね。朝?」
午前一〇時、いつものトリニティ本社スタジオにおいて、と尋道は言った。
「了解。だいたい聞くことは聞いた気がするんだけど、まだ、何か?」
「いいえ。以上です」
「五分もたってないぞ」
「レコーディングの話だけで、ディーラーが開くまで持たせる、とは言いませんでしたし」
舌打ちである。
「かわいくない。本当に、かわいくない。こうなったら、使えない部下に代わって、私が茶飲み話を提供してあげるよ」
「お願いします」
呈したのは、鶴見智美との間に起きた一戦の顛末だった。突然の開戦から、勝利の栄光までの推移を、朗々と語る。
「変わりませんね。あの人も」
渋い笑いを浮かべて尋道は言った。
「ですが、鶴見さんは別にして、正隆先生の知遇を得たのは、大きいんじゃないですか? 餅は餅屋といいますし」
「だね」
「存分に、利用、活用、すべきでしょう」
「そうするつもり。さて。そろそろ時間じゃない?」
「全く」
この日、二人が出向くのは、神宮寺家至近のディーラー、神奈川タカスカーズ鶴ヶ丘店だ。三分もあれば着く距離にある。
「九時五五分ごろに出たら、ちょうどいいぐらいでしょう」
「あと三〇分もあるじゃない」
「あなたが早く来過ぎなんです」
にらめっこが勃発した。
「次があったら時間まで応対しません」
「出てくるまでドアホン鳴らすよ」
「うちの家族を巻き添えにしてまでも、やろうというのなら、やったらいいでしょう」
孝子はソファに転がった。逆襲に遭い、ものの見事に打ち倒された。相手が相手だ。再起は容易のことではなかった。ならば、結論は一つとなる。ふて寝する。




