第六二三話 緑の日々(二五)
鶴見智美に一発、食らわせん、と孝子が「本家」を飛び出したのは、彼女の存在を五年ぶりに認知した、その三〇分後だ。ばかたれである。智美の名刺には、事務所の連絡先しか載っていなかった。個人的な用件に用いていいわけがあるものか。襲撃する。電話が不可能なら、直接、出向くのだって同様であろうに、頭に血が上っている孝子は思い至らない。
鶴見正隆法律事務所は、官庁街の中心部に所在した。地裁の真ん前に立つ一五階建ての最上階を占めている。鶴見正隆氏の威名がうかがい知れる配置ではないか。
孝子がのしのしとビルの入り口に向かう途中だ。
「あー! よもやの襲撃!?」
声の方向を見ると男女の二人連れがいた。見覚えがあるのは、ネービーのスーツに身を包んだ小柄な女性となる。童顔と引っ詰めが相まって、学生然とした鶴見智美だ。片やのロマンスグレーは鶴見正隆弁護士だろう。
「そうだよ。襲撃だよ」
正隆とおぼしき人物に会釈しつつ、孝子は智美のそばに寄った。
「名刺。電話番号ぐらい書いておけ」
「え。書いてあったでしょう?」
「事務所のじゃないの。智美ちゃん、お願いします、なんて個人的な用事で掛けられるわけないでしょう」
「気にしなくても大丈夫だよー」
「大丈夫じゃない」
重々しい声が響いた。
「お前らしい、抜けた話じゃないか」
「いや。でも、おじいちゃん」
「おじいちゃんじゃない」
やはり、鶴見正隆弁護士だった。この事実は足掛かりに、孝子はさらなる攻勢に移った。
「そうだぞ。智美ちゃんは、人前で所長をおじいちゃんなんて呼ぶのかね。甘ちゃんですなあ」
「あっ。便乗して」
「失礼いたしました。鶴見正隆先生でいらっしゃいますね。お初にお目にかかります。神宮寺孝子と申します」
打って変わって、爽やかに孝子はまとめた。
「ご丁寧なあいさつ、痛み入ります。鶴見です。智美が、司法修習を一緒にやりたい、と言っていた相手は、あなたでよろしいか?」
「はい」
「学生時代は、これが、随分と迷惑を掛けたとか」
「お気になさらずとも、全て返り討ちにしましたので」
正隆は破顔した。
「これは、したたかな。智美では相手にならなかったはずだ」
かあっ、と智美は歯ぎしりをしている。
「悔しいけど、確かに、相手になってなかった。で、神宮寺さん。わざわざ来てくれた、ってことは、修習を一緒に、って話、前向きに考えてくれてたり?」
「まあね。高校の時みたいに、切磋琢磨してみるのもいいかな、って」
「いいね!」
「本当に、どうも、お調子者のきらいのある子でね。しかし、あなたと一緒なら安心だ。厳しく、接してやってほしい」
「安んじて神宮寺孝子にお任せくださいませ」
「うん。お願いする。それにしても、大した貫禄だ。智美と同い年とは思えない」
「それは、もう」
堂に入った差す手引く手で、場は孝子の掌中だ。
「まさか、おじいちゃんを一撃で落とすなんて。侮れないなあ、神宮寺さん」
「こう見えて起業してるんだ。いろんな世界を見て、多少、磨かれた、っていうのは、あるかもしれない」
「え。起業って、どんな?」
「マネジメント業。妹の、とか」
「妹さん、何かやってるの?」
四年に一度のスポーツの祭典、ユニバースこと「ユニバーサルゲームズ」が前回、開催されてから二年が過ぎようとしていた。智美の反応は、マイナースポーツが残す痕跡など、この程度、という証左なのだろう。ならば、いちいち説明するのもおっくうだった。孝子は軽く受け流すつもりになっていた。
「ちょっとね」
「申し訳ない、神宮寺さん。智美は、全く、スポーツに興味がなくてね。舞浜市民としてお恥ずかしい限りだ。智美。お前は戻ってなさい」
あきれ果てた、といった正隆の口ぶりだった。こちらは、いくつかのキーワードより発想するものがあったとみえた。
「え。おじいちゃん。何、いきなり」
「ただのスポーツなら、ここまで言いはしない。ユニバースのメダリストは立派な時事だよ。しかも、地元なのに。情けない」
正隆の視線が孝子に移った。
「神宮寺さん。ご承知のとおり、私の事務所は、こちらのビルに入ってるんだが」
地裁の真ん前ビルが示された。
「地下のコーヒーが、なかなかおいしい。どうですか。付き合っていただけますか。司法修習のことなど、お話しよう」
「はい。喜んで」
依然、ちんぷんかんぷんといった風情の智美を置いて、正隆は歩きだす。つと寄り、孝子は智美の肩を抱いた。追い打ちに、あえて移らず、情味のあるところを見せるのも、差す手引く手の一環となる。




