第六二二話 緑の日々(二四)
千葉県にて開催されるサッカー日本代表チームの合宿へ出掛けた奥村と、次に孝子が顔を突き合わせるタイミングは、一週間余り後の同月末だ。合宿が終わり、世界選手権の開催地であるイギリスにたつまでの間の、たった一日のオフが、それだった。世界選手権の励みにしたい、という奥村の発言を真に受けるのなら、『週末の騎士』の実質的な締め切りは、その寸暇まで、となる。
十分に、事足りる。伴奏は、関のものを使う。歌のほうは、一〇分もあれば済む。岡宮のプロデューサー、剣崎の都合さえ付けば、納品はすぐにでもできるだろう。
以上のいきさつにより、孝子が剣崎待ちの状態にあった、すなわち暇であった五月下旬のある日である。
「はい。ただいま」
裏口から美咲の声が聞こえた。普段よりも随分と遅い帰りだ。午前の診療が長引いているのか、あるいは、なんらかの取り込み事が起きたか、などと調えた昼食を横目に、DKにてロンドと共に待っていた孝子だったが、
「お帰りなさい」
果たしてDKに姿を見せた美咲の表情は、微妙な色彩を帯びていた。手にしている紙片は名刺のようだ。取り込み事のほう、とみえた。
「孝子。高校の同級生に、鶴見、って子、いたでしょう? 覚えてる?」
意外の名が出てきた。帰宅の遅延は、当該の人物絡みであったか。
「鶴見、智美、ですか?」
「そう。その子」
手渡された名刺には、
「弁護士法人 鶴見正隆法律事務所 事務局 鶴見智美」
とあった。代表弁護士の鶴見正隆氏は智美の祖父、と美咲の説明が入るも、右から左だ。そんなことは、どうでもよい。好かぬ相手である。だいたい、なんだ。高校を卒業してはや五年が過ぎていた。この間、全くの音信不通であった者同士が、今更、なんだというのだ。
「あ。美咲おばさま。お昼にしましょう」
ともあれ、これ、だった。智美などよりも、これ、だった。
二人と一匹のDKは、食器がこすれる音のみが響いている。この時間、那美と佳世は大学に登校しており、不在だ。
不意に美咲が含み笑いである。
「嫌われてるかもしれない、って言ってたけど、本当みたいね」
顔に出た、らしかった。
「あの人、医院に来たんですか?」
「うん。ただ、かかりに来たんじゃなくて、私を孝子の母親と勘違いして。まあ、説明するのも面倒くさかったんで、訂正せずに母親面しておいたけど」
「ママ」
かつて、自分を養女に、と望んだほどには、親愛の情を寄せてくれている相手だ。ささいないたずら心、と協調しておく。
「ママ。あの人、何をしに?」
「司法試験で見掛けたんだって。で、法曹の人たちって、事前の研修があるらしいんだけど、それを一緒にやりたいんだって」
「私、まだ、合格したか、どうかも、わからないんですけど」
「そこは、大丈夫、だそうよ。お前が落ちてるはずがない、って」
鶴見智美め、またぞろ点数勝負がしたいのか。高校時代に付きまとわれた不愉快な記憶が蘇ってくる。
「普通に頼んだら、まず断られると思うけど、絶対に損はさせないから、だそうだよ」
「はあ」
「研修先が、遠くになっちゃう場合もあるってね。でも、コネで、絶対に舞浜にするって」
研修、とは。捕らぬたぬきの皮算用ではないが、司法試験後の先行きについて、まだ精査していない孝子だった。
「ママ。遠く、って、どれぐらい?」
「北は北海道、南は沖縄」
おじけ立っている自分を孝子は感じた。北海道にも、沖縄にも、縁もゆかりもない。そんな土地に飛ばされるなど、可能であれば避けたい事態だった。
「あの人に、研修先の操作なんて、できるんですか?」
「あの子には、無理でしょ。でも、おじいちゃんのほうは、私でも知ってるぐらい有名な方だし。なんとかなるんじゃない?」
高名な法曹家の威光をかさに着るわけか。背に腹は代えられない、という。長いものには巻かれよ、ともいう。鶴見智美と面談してみることにする。さて。五年ぶりの再会は、どうなるやら。




