第六一九話 緑の日々(二一)
出発する前に尋道の説明が入った。たどる道程およびかかる時間についてだ。自宅が最も遠方にある奥村を最初に送り届け、次に佐伯、最後に伊央、という順だそうな。
「なので、伊央さん。鶴ヶ丘まで二時間弱ぐらいかかってしまうのですが」
「問題ないよ」
「伊央さん。本当に神宮寺さんのお家に居候するの?」
運転席と助手席間の会話に奥村が加わった。
「するよ。女の園らしいし、楽しみだね」
「いいなあ」
「何がいいものですか。うちにいるのはすれっからしばかりだよ。イオケンも、そのうち逃げ出すね」
「郷本君を通じて大家さま方の情報は入手してあるよ。みんな、さっぱりしてて、気楽な住まいのはず、だってさ」
「内部情報をもらすなよ」
「奥村の彼女も一緒に住んでるんだよな? せっかくだし、会ってったら? 佐伯も付き合えよ。二人とも、家まで俺が送ってやるから」
伊央の車は尋道の手で「本家」前のカーポートへ移動済みだった。
「では、まず鶴ヶ丘に行きますか」
早朝のこと、道路は順調に流れ、一行は三〇分強で鶴ヶ丘に到着した。神宮寺家の敷地に入ると、例によって例のごとく、那美とロンドが待ち構えている。
「いっぱい来た!」
「彼氏を連れてきたやったよ。いちゃついたら?」
ロンドを抱き取りながら孝子は冷やかしにかかったが、
「奥村さん! お土産!」
てんで効果はない。
「このねんねが」
悪態を残して孝子は『本家』の玄関をくぐった。入ってすぐの左手が伊央に貸す部屋だ。
「おう。ちょっと変わった部屋だな」
室内に排水設備が完備されている様子を見て伊央はつぶやいた。
「おはようさん。この部屋は、私が父親の介護に使おうかと思っていた部屋なんだけど、あの人、勝手に施設に行っちゃってね。で、空きになった、ってわけ」
いつの間にか美咲がいた。寝起きらしく、乱れた髪に砕けた格好である。
「ああ。それで。おはようございます。叔母さまでいらっしゃいますね。ベアトリスFCの伊央健翔と申します。お世話になります」
「ちゃんとしたあいさつもできるんだ」
背筋を伸ばしている伊央を孝子はつつく。
「お前にはしないけどな」
「なんだ、その態度は」
「いいね。お兄ちゃんができたみたいじゃない」
「お兄ちゃんなら、かわいい妹にお小遣いをあげないとなあ」
差し出した手ははじかれた。
「かわいくないし、あげない」
「じゃあ、私には?」
奥村を引き連れて那美がやってきた。
「君には奥村がいるだろう」
「この男は駄目。ケイちゃんにお伺いをたてないとあげられない、って」
過去に、おねだりが不発に終わったことがあるのだろう。那美は口をとがらせている。
「妥当。紳ちゃん、それでいいんだよ」
「はい」
「神宮寺さん」
後背のほうで、尋道とごそごそやっていた佐伯だった。
「なんじゃい」
「ケイちゃん、っていうのは、神宮寺さん?」
「そう」
「どこから出てきた名前なの?」
「知ってるか、どうか、わからないけど、昔、アメリカにケイト・アンダーソンって歌手がいてね。私、その人が大好きなの。で、今どき、珍しい、っていうんで付けられた」
「初耳」
ケイト・アンダーソンが死去して、既に四〇年以上が過ぎている。その名を佐伯が知らないのも無理はない。
「すごく気に入ってるし、君たちも、神宮寺さん、なんて他人行儀な呼び方じゃなくて、こっちを使ってもよくってよ?」
「おう。じゃあ、お兄ちゃんは妹を、おケイ、って呼ぶわ」
「なら、お前は、おニイ、な。おニイ。道路が混まないうちに二人を送ってきたら?」
「その前に、少し腹減った。おケイ。何か食べさせてくれい」
「厚かましいおニイだな。まあいい。心優しい妹は適当に見繕ってやるのだ。二人も軽くつついていく?」
かくして伊央たちの出発は後回しとなり、急きょの朝食会が開催される次第と相成ったのである。




