第六一五話 緑の日々(一七)
はっと覚醒した孝子が、まず思ったことといえば、どこだ、ここは、であった。見覚えのない格天井からの発想になる。孝子は、この格天井を見上げる形で、敷き布団に横たわっていた。
数秒の黙考を経て記憶が呼び起こされた。黒須宅に転がり込んだのだ。
孝子は半身を起こして周囲を見回した。だだっ広い和室だった。黒須宅には、こんな部屋も存在したのか、と感心しかけて、一等地に立つマンションの最上階だ、おかしくはない、と思い直した。
立ち上がり、窓辺に寄った。障子を開けてみて、がくぜんとする。透過してくる光の明度で、日中とは予想できていたが、まさか、ここまで明るいとは、である。昨日の黒須宅入りは、どれだけ早く見積もっても、午後四時になんなんとするころだったはずだ。とても、それ以降の日差しとは思えなかった。一体、どれほど眠りこけてしまったというのか。
再度、孝子は周囲を見回した。携行のトートバッグを探したのだ。
あった。部屋の隅に走り、トートバッグの中からスマートフォンを取り出した。
やった。翌午前一〇時二三分が、現在の時刻だった。
いやはや、どれほど、といえば、丸一日近く眠りこけていたわけである。
孝子は現状の把握を開始した。衣服は昨日のままだ。当然、寝乱れている。髪もひどかった。部屋の外に出るのが、若干、はばかられる。そこで、電話をかけることにした。
「はい」
相手は清香だ。
「奥さま。起きました。ちょっと、だらしなくなっていて、外に出られません」
「貴一さんなら追い出したよ。夜まで帰ってくるな、って」
「奥さまにも見せられません」
「じゃあね。その部屋を出た向かいに、ゲスト用の浴室があるの。そこに入って、シャワーを浴びたらいいよ。孝子ちゃんが中に入ったのを見計らって、私、着替えとかを置きに行くね。あ。服は、洗濯しちゃってもいい?」
「はい。お願いします」
言われたとおりに孝子は和室を出た。確かに部屋の向かいに扉があった。開けて、素早く中に収まる。容積といい、質感といい、豪奢である。ゲスト用でこれなら、オーナー用は、いかばかりか。白黒ツートンでまとめられた脱衣室、浴室と眺めながら孝子は考えたものだ。
湯量の多いシャワーを満喫し、生気をよみがえらせた孝子は、清香が用意してくれた一式を身に着けて、さっそうとリビングに押し掛けた。
「奥さま。いただいてきました」
「おおー。見違えたね。昨日は死人みたいな顔色してたよ」
ソファに腰を下ろしていた清香が立ち上がった。水色のサマーニットと白いパンツといった組み合わせが清新に映る。
「さあ。座って」
導かれるまま、孝子は清香の対面に着いた。
「こちらにお邪魔したところまで覚えてるんですけど、その後の記憶は、全然」
「取りあえずお茶でも、って言ったら、いらん、床でいい、寝かせろー、って怒られたよ」
「またまた」
言いかねない、と思いつつ、おどけておく。
「本当、本当。で、ね。さっきの部屋に連れていったら、そのまま転がって、寝ようとして。布団ー、布団引くまで、待ってー、って」
「またまた」
言い終わると同時に、孝子はテーブルに手を付いた。
「申し訳ございません。覚えてはないんですけど、私なら、言ったし、やった、と思います」
「いいよー。試験、頑張ったんだもん。仕方ない」
こちらも記憶にはなかったが、最低限の事情は、昨日の自分め、説明を怠らなかったらしい。
「ご家族の連絡先、わからなかったんで、郷本君に頼んだよ。おうちに、しっかり伝えてくれた、って」
「ありがとうございます」
「時に、孝子ちゃん。お腹空かない?」
昨日の最後の食事から丸一日近くたっていた。しかも、試験中のことだ。軽めに済ませてある。まさに空腹だった。
「洗濯物が乾くまで、二、三時間かかるんだ。待つついでに、どう?」
手料理でもてなしたい、という誘いだった。
「奥さま。私、昨日はお昼が最後です。とってもお腹、空いてます。早くごちそうしてください」
ぱっと華やいだ表情が答えになる。ついに授からなかった子に、利かん気な女を重ねているらしい清香だ。厚かましい申し出は、願ったりかなったりのようであった。




