第六一三話 緑の日々(一五)
驚くべき伊央とのやりとりがあった翌日、孝子は栄養ドリンクの箱を手にSO101を訪ねた。この手を愚痴るには郷本尋道こそ最良の相手だった。何事であっても軽く受け流して、孝子を刺激しない。また、善後策があれば、抜かりなく実行してくれる。実に頼りがいのある男なのである。
「お。珍しい」
SO101に入室すると、尋道の他にみさとがいた。
「いつまで食べてるの。もうお昼の時間は終わってるぞ」
時刻は午後一時を回っていた。にもかかわらず、ワークデスクの上には、みさとが広げたであろう昼食一式がある。
「サボりじゃないよ。私、お昼の電話番してたの。今は立派な休憩中」
税理士事務所に勤務しているみさとなのだ。
「で、わざわざ、ここまで食べに? 暇人」
「うっせ、うっせ。お。あんた、須之内さんにもらったとかいうやつ、真面目に着けてるじゃん」
みさとが指したのは、例のスマートペンダントだ。
「殊勝じゃない? 使ってあげないと悪いかな、って」
「優しいんだー」
「うっせ、うっせ」
「まあ、それは、いいや。聞いたよ。伊央さんの話」
顛末を、先ほどまでSO101で騒いでいた那美に聞いたという。
「あんた、借りてきた猫みたいになって、美咲さんに言ったんだってね。居候を増やしてもよろしいでしょうか、って」
「あの愚妹。あ。郷本君。これ」
「ありがとうございます」
栄養ドリンクの箱を押し頂いた尋道は、早速、開封しつつ、つぶやく。
「しかし、やってしまいましたね」
「まさか乗ってくるとは思わなかった」
孝子は尋道の斜め前、みさとの隣に腰を下ろした。
「あなたのことなので、伊央さんの稼ぎとか知らずにからかおうとしたんでしょうけど」
「あの人、高給取りなの?」
「ご本人に聞いたわけではありませんが、推定五億とか」
「しかも、だ。夏に、サッカーの世界選手権があるじゃない? 活躍次第で、移籍とか更改とかあって、どーんと上がるかもしれない」
「へえ。だったら、三〇〇じゃなくて三〇〇〇、むしってやればよかった」
孝子の減らず口に、みさとと尋道は顔を見合わせて失笑する。
「言いますね。そんな気はないくせに」
「言った手前、宿の面倒は見るけど、お金はいらない。どうしようか」
「伝えておきますよ。さっぱりした、こだわりのない方です。もめるようなことにはならないでしょう。せめて実費は、とおっしゃるかもしれませんが、そちらは素直に受けてくださいね」
「ほい」
これぐらい、だろう。孝子が話題を転じようとした寸前だった。
「世界選手権、楽しみですね」
「え? なんの?」
「サッカーです」
尋道は言った。孝子の勢力下に入った感のある伊央が、そのおかげを被って大活躍するのでは、という読みになる。
「ああ。あるね」
みさとも同意らしく、しきりにうなずいている。
「あるわけないでしょう」
あった、としても伊央の修練に起因するものだ。孝子は関係ない。カラーズの誇る「両輪」が、そろって愚かしいではないか。
「くだらない」
「個人の信心にけちを付けないでください」
「怒られた」
ぷっと孝子は頬を膨らませた。同時に立ち上がっていた。用は済んだ。帰るとする。
「そうそう」
扉に向かいかけていた孝子は、くるりと振り返った。
「ぼちぼち勉強のラストスパートを始めようと思うんだ。しばらく顔を出さなくなるけど、いろいろとよろしくね」
一カ月後に実施される司法試験を受験する予定の孝子だった。
「ああ。もう、そんな時期ですか。健闘を祈ります」
「あんたなら問題なく受かるよ」
尋道の常識的な激励に比べて、もう一人の軽いことといったら、どうだ。斎藤みさとは、難関と称される税理士試験に、大学在学中の合格を果たした秀才である。そんな相手が何を言おうと、響くものではない。片頬だけに笑みを浮かべ、孝子はSO101を後にするのだった。




