第六一二話 緑の日々(一四)
後に「ビッグガード例外条項」と称される、日本リーグの外国籍選手登録に関する付則の成立は、毎五月末に行われる定時社員総会を待たなければならなかった。となれば、孝子は興味を失う。即断即決こそが、この女の本性なのであるからして。
孝子が、アストロノーツへのてこ入れ策うんぬんを完全に忘却し、安穏と日々を送っていた四月の半ばだ。座卓に向かって勉強にいそしんでいると、胸元のスマートペンダントが震えた。須之内景に押し付けられたものを、律儀にぶら下げていたのが、幸いだか、災いだか、した。
「イオケンー?」
スマートペンダントに表示されているのは伊央健翔の名であった。孝子はスマートフォンを手に取って応答した。
「なんの用だ。私はお前に用はないぞ」
「そりゃそうだ」
受話口越しに伊央の笑声が聞こえてきた。
「で、なんじゃい。こんな夜遅くに」
「そっちは一〇時前だろ。遅くない」
「うるせえ。さっさと用件を言え」
「うん。実は、日本に戻った時の住まいを探してほしいんだ」
いつ戻るのか、と問えば、来月の半ば、という。
「実家は?」
「置く場所がない」
「じゃあ、古巣に帰れ」
孝子の言う古巣とは、伊央が前に所属していた舞浜F.C.の選手寮を指す。舞浜F.C.グラウンドに併設された同施設は、生活環境と練習環境を兼ね備えた、プロサッカー選手にとっては理想的な住まいといえるはずだった。
「イオケンなら頼めば入れてくれるでしょ」
「嫌だ」
「何が不満なの」
「オフの時間はサッカーから離れたいんだよ」
「わからないでもないけど」
そもそも、である。なぜ、孝子に電話してきたのか。この手は郷本尋道に依頼するのが、カラーズの本筋だろうに。
「いや。それは彼に頼めば確かさ。でも、君に頼んだほうが面白そうだし」
「言ったな。後悔させてやる」
最初に思い浮かんだのはlaunch padのロケッツ寮だったが、すぐに思い直した。伊央の期待に沿うて、せいぜい面白くしてやらねばなるまい。最終的には紹介するとして、ひとまず、吹っ掛ける。
「いい物件がある。三食付いて、部屋も広い。三〇帖ぐらい。駐車スペースも、もちろん完備。そうそう。シャワーとトイレも部屋にあるんだった」
義理の祖父が使う予定だった「本家」の一室について孝子は語っている。
「それは、どこかの寮?」
「いや。寮じゃなくて」
いよいよ、吹っ掛ける。
「私のうちだ。家賃は、そうだね。月三〇〇万で住まわせてあげるよ」
まさか乗ってくるはずがない、と確信しているので孝子はほくそ笑む。
「オーケー。決まりだ」
「は?」
なんと言った。思わず孝子は聞き返していた。
「イオケン。耳の穴、詰まってない? 私、三〇〇万って言ったよ?」
「詰まってない。そういえば単位を聞いてなかったな。ポンド? ポンドなら、えらい額になるけど」
「円」
「円なら大丈夫。三〇〇万、払う」
びた一文まけぬ、と言っても、まるで応えた様子はない。
「いいよ。今年は世界選手権があって、いつお邪魔できるか、正確に言えないんだけど、その節はよろしく。じゃあなー」
切られた。自分の奇矯な生態は、はるか遠い棚の上に放り投げておいて、孝子は思う。イオケン、とんでもないやつ、と。




