第六〇六話 緑の日々(八)
各務智恵子率いる全日本女子バスケットボールチームの、今年最初の強化合宿は、四月一日に中日を迎える。この日が特筆されるのは、LBAに参加する神宮寺静、北崎春菜、市井美鈴、武藤瞳らが、五月に開幕するLBAのシーズンに備えて合宿を離脱するためだった。四人はあさっての飛行機で渡米し、レザネフォルでミニキャンプを張った後に、それぞれのチームへと赴くこととなる。
「静たちは、いいんですか?」
「いいんだって」
春菜に迎えを頼まれた、付き合え、と誘った際の景の反応と、それに対する孝子の回答が、これである。
「あの子、こっちに戻り次第、引っ越しをしたい、って言ってるの。他は足手まといになるから、あえて言わなかったって。悪だね」
「悪ですね」
こんなやりとりを経ての当日、午後七時半だ。東京都北城区の国立トレーニングセンター宿泊棟前では春菜が待ち構えていた。
「さては、練習が終わり次第、ぶっちぎってきたな」
「さすが、お姉さんです」
「わからいでか。ジャージーのままじゃないの」
人の悪い笑み同士、対面しているそばで、景が春菜の荷物を車のラゲッジに積み込んでいる。玄関先の鈍い照明に照らされたダークグレーのSUVは須之内家の車になる。
「須之。ありがとう」
「この後のお引っ越しでもお役に立ちますよ」
「助かりますよ。時に、お姉さん」
「何」
「随分と、ごついペンダントですね」
景に送られたスマートウオッチのボディーを用いたスマートペンダントだ。渋々と着けている。
「須之ちゃんの悪意で、卒業祝いにいただいた」
「お姉さん。好意です。好意」
と、そこへ、駆け寄ってきたのは静、美鈴、瞳の三人だった。三人もまたジャージー姿であった。春菜を探して、たどり着いたのだと思われた。
「練習が終わった途端に走りだしたと思ったら! こういうことか!」
美鈴が叫ぶ。
「こういうことです」
「お姉ちゃんを呼ぶんだったら、私たちにも言っておいてくれたらよかったのに」
「嫌ですよ。私はさっさと帰るんです」
「北崎さん。荷物、いいですよ」
「オーケー。では、さようなら」
「あ。ちょっと、いいか。すぐ済ませる」
「なんですか。早くしてくださいよ」
「お前じゃなくて、須之内」
瞳が進み出た。
「お前、さ。バスケ、大学までなんだって?」
「そのつもりです」
「うちに来る気ないか? 春谷もんにもチームに関わってもらえるように調整する」
瞳の日本での所属先は高鷲重工アストロノーツだ。そして、春谷もんとは瞳が孝子に奉った愛称である。ちなみに孝子から瞳は須美もんだ。互いの出生地である福岡県春谷市春谷町と同須美町にちなんだ呼び掛けとなる。
「その話が本当なら、別にいいですよ」
「ちょっと! 景!」
抗議は静だった。さもありなん。舞姫を見限り、バスケットボールもこれまで、と言った、その舌の根の乾かぬうちにアストロノーツとの交渉だ。盟友の引退表明で、誰よりも衝撃を受けたであろう彼女とすれば、怒鳴りたくなる気持ちにもなる。
「何」
「何、じゃないよ! ふざけてるの!?」
「舞姫には、ちゃんと断りを入れたよ」
「そういう問題じゃないよ!」
「ふうん。じゃあ、やめておく。武藤さん。やっぱり遠慮しておきます」
景め、なんとも泰然としている。
「ねえ。おはる」
「はい」
「須之ちゃん、見込みある気がするんだけど、どう思う?」
「大ありです。元々、肉体的には申し分なかったところへ持ってきて、精神的にも成熟した感じですね。このまま引退させるには、ちょっと惜しいですよ。わかりました。ここは私が一肌脱ぎましょう」
「何をするの?」
「私もアストロノーツに行って、須之をコーチします」
ついに孝子は噴出した。天才と天才の邂逅が、思いも寄らぬ事態を巻き起こしだしている。実に興味深かった。どう転がるか、見守ってみよう。なお、一人苦虫をかみつぶしたような静については、知らぬ。存ぜぬ。




