第六〇二話 緑の日々(四)
スパイ、ではなくて、密偵、でもなかった。架け橋としての初陣を、祥子は立派に務めたという。舞姫館に戻るや、カラーズの変わりない親心を確認できた、と吹いて回り、居残っていた静を捕まえては、孝子への不干渉を言い含める、といった具合である。報告を受けた孝子はにやけたものだった。今回の始末は、定めし、これをもって付いたとみていいだろう。
明けて、翌朝だ。買い出しに向かうべく、佳世を引き連れて「本家」を出たところで、出がけの静と鉢合わせた。
「あ。お姉ちゃんと佳世ち。おはよう」
「おはよう」
「おはようございます」
「どこか行くの?」
「買い物。そっちは?」
「舞姫館。練習。そういえば、二人は、明日、なんで行くの?」
「明日?」
隣の佳世を見た。孝子と同様に覚えがないようで、明度の高い栗色のショートボブが左右に揺れる。
「シェリルとアートが明日、アメリカに帰るでしょう。イライザも一緒に。東京空港のそばの、なんていったっけ、ビジネスジェットの発着場から」
舞姫か。ならば、答えは決まっている。
「行かないよ」
「え。なんで?」
「私は、もう、舞姫とは関わらないからだよ。じゃあね」
言い置いて、孝子は車に乗り込んだ。佳世の乗車を待って発進させる。立ちすくむ静には、一瞥だって与えない。
「お姉さん。本当に、舞姫と縁を切っちゃったんですね」
佳世がつぶやいた。内定者としてカラーズの社内報に触れている彼女は、一連の事情にも通じている。
「そうよ。佳世君は私に遠慮しないで行ってきたらいいよ。明日」
「行きません。特にお二人と親しいわけでもないですし」
車が神宮寺家の西門をくぐった。
「しかし、こうなってくると、舞姫も微妙に思えてきました」
「何が?」
「所属先として」
「見知った顔がいっぱいいるじゃない」
佳世は含み笑いだ。
「北崎さん以外は、そんなに。それよりも、お姉さんと縁の切れたチーム、という事実のほうが、気になります」
取り越し苦労といえる。依然としてカラーズと舞姫の絆は健在なのだ。
「お姉さんを含まないカラーズさんじゃ」
「郷本君の喜びそうなことを言うね。あの人、私を異様に買ってるし」
「ああ。郷本さんに相談してみようかな」
「何を」
「カラーズへの就職と舞姫への入団は、必ず、セットなんですか、って」
なかなか踏み込んだ発言といえた。そこまで佳世が舞姫の行く末を懐疑的に見ているとは、孝子、少々、驚いた。
「もし、セットじゃない、って言われたら、どうするの?」
「カラーズのOL一本でいこうかなあ」
折しも赤信号だ。車をとめ、横目にうかがえば、まんざらの冗談でもなさそうな佳世の表情である。池田佳世は、一〇〇年に一人とも称される類いまれなアスリートだ。その彼女をして、このような言動を取らせてしまうとは。これは、下手をすると、舞姫ひいては日本の女子バスケットボール界に、あだをなしてしまったかもしれなかった。
「うはははは」
知らず笑いが出た。
「どうしたんですか?」
「いや。もし、本当に佳世君が舞姫に入らずに、バスケをやめちゃったら、私、女子バスケに壊滅的な打撃を与えちゃったのかもなあ、って」
「大丈夫です。そこまでの選手じゃありません。私は」
「その言葉、真に受けるよ? なら、好きにしたらいい。私は反対しない」
「はい。ありがとうございます」
「どうする? 郷本君のところに行く?」
「いえ。須之内先輩とも相談したいので、週明けにでも」
それも、好きにしたらよい。人ごとである。孝子は、反対しない。
信号が、青へと転じた。




