第五九八話 スイートホーム(三〇)
孝子の説明を聞いた尋道は、ただ、好事魔多し、とつぶやいたのみだ。落胆するでもなく淡々としているように見えた。
孝子はテーブルの上のカップに手を伸ばし、コーヒーを一口、含んだ。二人が相対しているのは郷本家の応接室である。
「怒られると思ってたんだけど」
「まさか。むしろ、申し訳ないことをしました。静さんと長引かせないでくださいよ」
「もう怒ってないよ。全部、放り捨てたら、どうでもよくなった」
「そうですか。なら、よかった」
言った後に尋道は腕組みをして瞑目する。
「怒ってるじゃないの」
「いえ。別件です」
「何?」
「ホールにいたのはあなたを含めた四人だけでしたか?」
「いや。他にもいた。誰だったかは記憶にない。でも、なんで?」
「漏れる、とみておいたほうがいいでしょう」
孝子の横暴が舞姫中に、という話だ。
「まずい?」
「いいえ。これを機に舞姫館を出る材料に使えるかな、と考えてまして」
「どういう飛躍?」
「表向きは、当社の社長が迷惑を掛けちゃって、ごめんね、これ以上、引っかき回さないよう、身を引くね、と。内実は、親会社の社長のやることに口を出すんじゃないよ、こうなったら出ていってやるわ、ばかやろう、と」
尋道がじんわりと目を開いた。
「前に、あなたを掣肘してくれるな、と言ったんですがね。無視されてしまいました」
「怒ってた」
「別件でね。今回は静さんでしたけど、いつなんどき、別の誰かとの間で同じような事態が起こらないとも限りませんし。思うに、カラーズは、親会社だ、子会社だ、って向いていませんでしたね」
「カラーズは、じゃなくて、私は、でしょう?」
「同じことですよ。昔に戻しましょう。どのみち『まひかぜ』さん跡のビルが完成したら、あちらに移るわけですし、ワンクッションという意味でも悪くありません。いきなり動けば物議を醸すかもしれませんしね」
「そうだね」
「任せていただいても?」
「よいよ」
「あと、捨てるぐらいだったら、ドラムとギター、ください」
「よいよ」
この男には全幅の信頼を置いている。任せておけば、いい報告がある。そんな実体験しかなかった。よって孝子は逆らわない。今回も、好きなようにやってくれたらいいのだ、と思っていた。
信任された男の翌日は、譲り受けた電子ドラムとギターを「本家」から運び出す作業で始まった。孝子の電光石火に気付いた静が蒼白となっているのを目にしても、これにはかかずらわない。尋道にとっては、現状、遺憾の意しかない相手なのだ。説明の労を執る気はなかった。
搬入が終わると外出だ。教導したがる孝子を、仕事、と退けて、向かった先は官庁街になる。カラーズの仲間たち、正村麻弥および斎藤みさとと面談するためだった。二人が勤務する斎藤英明税理士事務所の昼休憩に予約を入れてあった。
面談は事務所内のミーティングルームで行われた。かねて、この日の来たらんと意志の疎通を計っていた三人だったので、合意はすぐに済み、残りの時間は雑談となる。
「まさか、本当にSO101に戻ることになるとはな」
麻弥が、すっかり板に付いてきた長い髪をかき上げながら言った。
「正村さんが髪を伸ばしだしたのって、SO101に入ったころからですよね?」
ふと尋道は問うてみた。よみがえってきた記憶の確認だった。
「ああ。伸ばしてる、って外見でわかるようになったのは、そのころだな。実際に伸ばし出したのは、当然、もう少し前なんだけど」
「では、だいたい、カラーズの歴史と正村さんの髪の長さとは、リンクしているわけですか」
「そんな大げさなもんじゃないだろ」
そろって鼻を鳴らす。
「いや、でも、久しぶりのSO101って、なんか、心弾むよね」
身を乗り出してみさとが言った。
「いえ。お二人には来ていただく必要はありませんが」
「なんだ。なんだ。冷たいな、郷さん」
「冷たいな、ではなく。お二人とも、メインはこちらでの勤務でしょう」
麻弥は社会人としての実務経験を積むため。みさとは税理士登録の要件である実務経験を積むため。それぞれ斎藤英明税理士事務所に所属している状態である。
「まあ、そうだけど、さ」
「僕だけでいいですよ。お二人は新社屋が完成したころに合流してください。再来年度には間に合うんでしょう?」
「うん。二月予定かな」
「私、やっぱり、顔を出すよ。舞浜大なら、ここと、そこそこ近いし。カラーズを昔に戻す、って聞いたら、じっとしてられない」
「私も行きますわ。SO101はカラーズの実家みたいなものだもんね」
麻弥、次いでみさとが明言した。二人の表情は共に照り輝いている。回帰への思いに息む二人のせいか、室内の空気は心なしか沸き立っているようにさえ感じられた。とんだ一波乱も、カラーズに限っていえば、雨降って地固まる結末となった形だ。悪くなかった。




