第五九七話 スイートホーム(二九)
出遅れたようだ。試合を終えたころを見計らって舞姫を訪ねた孝子が見たものは、暗がりの中、館の前に停車したバスのテールランプである。今まさに到着したばかりらしかった。邪魔な。じりじりと駐車場の片隅で待機し、バスが移動したところで、再度、動きだす。車から降り、舞姫館に突入する孝子の背には、新品のギターを納めたギターケースがある。
「ヘイ! アート!」
大方は自室に戻ったようで、エントランスホールの人影はまばらだったが、その中に金髪女の姿を孝子は認めていた。
「ケイティー! 何を背負ってるの? まさか!?」
「その、まさか、だ。見ろ!」
取り出したるは舞姫カラーのマリンブルーをまとったギターだ。
「どう? 似合ってる?」
手渡されたギターをアーティが構えてみせた。昨日の時点では、やけのやんぱちになってギターへの挑戦をほえていた彼女も、さすがに現物を前にすれば心持ちも改まるとみえる。
「うん。似合ってる。弾けそうな感じは全くしないけど」
「なんですって! 見てなさい。頑張って覚えて、驚かせてやるわ!」
「ミスター・ノブに習いなよ」
ミスター・ノブこと郷本信之は尋道の父で、熟練のギタリストだ。孝子が師事したのも彼である。
「早速、行くわよ!」
「待って、アーティ。何を考えてるの。今、ファイナルの真っ最中だよ? せめて、ファイナルが終わった後にしなよ」
口を挟んできたのは、まばらの中の一、静だった。
「お姉ちゃんも。アーティの気を散らさないでよ」
「は?」
これが、一度目。
「いいなあ、アート。かっこいいじゃん。なあ。タカコ。私にはないんか?」
不穏の気配を察したようだ。こちらもホール組の美鈴が出張ってきた。
「あんなかさばるもの、持ってこられるわけないでしょう」
「その言い方だと、私にもあるんか!?」
「あるよ!」
孝子は胸を張る。意識的に義妹を視界の外にやった。
「電子ドラムっていって、練習用のやつなんだけど。一番いいやつにしたから、結構、本格的」
「おお!」
「ちなみに、既に一たたきして、まあまあマスターしておいた」
「私のドラムに何してくれてるん! くそ! 行くぞ!」
「もう。ミスまで。舞姫のキャプテンでしょう。チームをほっぽり出して、どこに行くつもり? しゃんとして」
「いや。自分で名乗りを上げておいてなんだけど、一年の半分いないキャプテンって、どうなん? 譲るべきかもしれないな!」
「だったら、須之ちゃんがいいかも。最近、貫禄が出てきた、って噂に聞いたよ」
「ちょっと。二人ともふざけないで。だいたい、お姉ちゃん、体調が悪いんじゃなかったの? なんで遊んでるの?」
これが、二度目。
「はあ?」
まっとうなのは静のほうだ。また、彼女が、孝子は尋道の依頼をせっせとこなしているだけ、という事実を知る由もない。
しかし、である。そんなことは枝葉末節に過ぎなかった。孝子の気は極めて短く、極めて荒い。二度も逆らいやがって、と怒髪衝天している。
「ごちゃごちゃと、うるせえな、てめえは」
頭ごなしに決め付けられれば、さすがの静だって反撃してくる。
「ごちゃごちゃ、って。私、当たり前のことしか言ってないよ」
これも断じて静は悪くない。だが、決定打になった。
「ああ。そうだね。当たり前だね。わかった。悪かったよ。やめる」
孝子はアーティの手からギターをもぎ取った。
「はい。やめた。やめた。音楽の話は全部なし。これでいいんだろうが!」
車に戻るまでの短い間で孝子は決めていた。まず、郷本家に行って、尋道に謝罪する。短気を起こした。すまぬ、と頭を下げる。苦いものは先に飲み下してしまうに限る。
次に、剣崎と連絡を取る。ギターと電子ドラムを突き返す。もはや必要ない。返品ではなく粗大ゴミとして引き取らせる。
これでしまいと思うと、いっそせいせいしてきた。義妹の一心も、そう考えれば悪くなかった。ひとりでに笑いが込み上げてくる。本当に、性根の悪い女だった。




