第五九三話 スイートホーム(二五)
二日連続で酔狂とは思ったが、孝子のこの日の目覚めも早かった。午前三時だ。枕元に放っていた照明のリモコンをまさぐり、明かりをつけて実感する。広い。目を開けば前後左右に壁が迫っていた、これまでの自室とは違う。特に長方向は、首を振らねば視認できないほどの距離がある。たまらない。
そろそろと起き上がる途中で、次の実感だ。外部の音がしない。この部屋は防音室なのだ。従って、内部の音も漏れ出さない。一転して孝子はベッドから跳ね起きた。
起き抜けの景気づけに電子オルガンを弾くべく、椅子に座って、孝子はしばし静止した。先に、コーヒーを飲もう、という考えが浮かんだのだ。そちらのほうがよい、と行動に移す。
DKに向かった孝子が湯を沸かしていると、
「やっぱり起きてた」
引戸が開かれて、ロンドを抱えた那美がDKに入ってきた。
「おはよう」
「おはよう過ぎるよ。なんで、そんな元気なの。わんわんに起こされる私の身にもなって」
「押し入れに放り込んでおけ」
「そんなひどいこと、できるわけないじゃないの」
「知るか。コーヒー、飲む?」
「飲まない。寝る。わんわんは置いていくよ」
床に放されたロンドは孝子の元へと小走りにやってきた。
「うん。おやすみ。おい。お前。また愚妹に文句を言われたじゃないの。いい加減にしろ。駄犬」
叱責も、まるで応えた様子はない。ロンドはネグリジェの裾の上から孝子の足に組み付いてくる。
「引っ掛かって、どこか折らないでよ。よし。一丁上がり。行くぞ」
自室に戻ると、ロンドは電子オルガンの側面にぴたりと体を寄せて座った。特等席らしい。
「音、出るよ? 犬は、耳がいいんじゃなかったっけ? お前、大丈夫なの?」
動じないので、大過なし、と判断させてもらう。手早くコーヒーを片付けた孝子は演奏を始めた。思い付くままに弾きまくる。
堪能した後は朝食の支度だ。そのうちDKに人が集まってきて、わいわい準備、わいわい食事、と移行していく。なんともはつらつとした朝だった。
「ねえ。ケイちゃん。私も剣崎さんのお話、聞いてもいい?」
食卓にて、今日の予定を披露した時である。
「なんで」
「ケイちゃんが、お部屋でゲームをやらせてくれないから、自分でなんとかできないか調べるの」
「私が悪いみたいに言うな」
「悪いよ。最愛の妹に意地悪して」
「最愛の妹が聞いてあきれる。そうそう。ちなみに、あの部屋、七〇〇万以上かかってる。那美ちゃんの出せるお金で、どの程度のことができるのか知らないけど、まあ、頑張って」
「うわ。最低」
そんな姉妹のいがみ合いの様子を聞き、あきれ顔を浮かべたのは、剣崎の到着に先駆けて「本家」を訪ねてきた尋道だ。DKにて供されたコーヒーを片手に、首をかしげている。
「やあ。心温まる姉妹愛ですね。お互い、すれっからして」
やゆの声に、孝子、那美、佳世は大笑だった。美咲は既に出勤していて、この場にはいない。
「うるせえ」
「ところで、那美さん。那美さんのやりたいゲームって、どんな感じのやつなんです?」
「テレビでCMしてるやつ。みんなで持ち寄って、レースとか」
「携帯機ですか。それなら、音響よりも一緒にやる相手を見つけないと。サッカーの佐伯君がいるでしょう。彼、うちの姉のゲーム仲間で、日本にいたころは、よく対戦とかしてましたよ。ゲーム機を持ち込んできて、お菓子をつつきがてら、まあ、楽しそうにやってましたね」
「おおー」
「そうだ。うちに来ませんか? 姉を紹介しますよ。で、どんな具合か、実際に一緒にやってみては、いかがです?」
「行く!」
案内してくる、と那美を伴って出ていった尋道は、三〇分ほどして戻ってきた。
「お帰りなさい。一葉さん、何か言ってた?」
「遊び相手ができて大喜びですよ。やっぱり、知った顔と対面でやるのは違うそうで」
「そう。迷惑じゃないならよかった」
「お互い、明るいし、すぐに意気投合していましたよ。音響の話題も、どこかに飛んでいったようで、よかった」
ぴんときた。一連の流れは謀略だったのか。
「那美さんのお小遣い程度で、できる音響って、ありませんよ。巡り巡って、あなたの部屋に、なんてなってたら大騒ぎだ。音楽は、あなたの聖域ですし、心置きなく楽しんでいただきたいな、と思いましてね。まあ、那美さんのご所望が据置のゲーム機だったら、お手上げでしたけど」
淡々と目の前の男は言ってのけた。相変わらず抜かりないし、よく気が回る。持つべきは、というやつの適例こそ、この郷本尋道なのだ。




