第五八四話 スイートホーム(一六)
とうとう、やってきた。何が、といえば、引っ越しの日が、である。待望久しかったせいか、孝子の起床時間は、なんと午前三時だ。ぱっちりと目が覚めてしまい、寝直すのは難しそうだった。
もっとも、無理はない。「本家」への入居まで、残すところ数時間と迫っていた。平面図によれば孝子の個室は三〇帖余ある。現在、住まっている狭苦しい四畳半と比べたとき、その快適は一〇倍では利かないだろう。あの部屋に行きたかった。疾く、行きたかった。時間よ、さっさと過ぎやがれ、と無茶を念じながら、じりじりと布団の中で夜明けを待ったが、とても持ちはしなかった。午前四時には、孝子、たまらず外に飛び出していた。
かすかに白みだした空の下、孝子は「本家」の前に立った。少し肌寒くとも、心配はいらない。天気予報によれば、この日の舞浜は南からの高気圧に覆われて、昨日までの寒空がうそのように晴れ渡る、とのことだった。入居と同様、もう少しの辛抱、というわけだ。
「あー。不審者がいるー」
接近して「本家」の中をうかがっていると、声が掛かった。那美だ。「新家」二階の自室から白い顔を出している。
「うるせえ。愚妹」
「なんだ、その態度は。人の安眠を邪魔しておいて」
「犬?」
「わんわん」
孝子の外出に気付いたロンドによって那美は起こされたのだ。忠犬にも困ったものである。
「いるよー」
抱え上げているようだが、見えない。
「駄犬。お前のせいで不審者扱いされたよ。反省しろ」
「駄犬って言うなー」
「なあ、愚妹よ。悪いのは犬じゃないかね。私に当たるなよ。犬に当たれよ」
「わんわんは悪くないもーん。こんな朝っぱらに、うろちょろしてる不審者が悪いんだもーん。部屋に戻って寝ろー。愚姉」
「愚姉だと」
浮かれているので、つまらない考えが浮かぶ。孝子は屋内に戻るや二階に駆け上がり、那美の部屋を急襲した。
「何しに来たー!」
孝子はおとなしく寝た、と思っていたのだろう。ベッドに戻って、掛け布団にくるまっていた那美が、侵入に気付いて叫んだ。
「愚妹をしつけに来た」
「帰れー」
「この姉に逆らうと、どうなるか。わからせてやるわ」
足元に擦り寄ってきたロンドを抱えたまま、那美の上に馬乗りとなった。
「どけー。愚姉」
「犬。やれ」
ロンドを那美に近づける。
「あー!」
顔面をなめ回された那美の悲鳴である。
「わんわん! なんで、そんな人の命令を聞くの!」
「犬。気持ちいいぐらい完璧に、いつもお世話してくれてる恩を仇で返したね。いいぞ。さあ。思い知ったか。愚妹」
「今日はずっと忙しいんでしょう? 寝なよー」
それができれば、朝っぱらに不審者呼ばわりされたりしない。
「楽しみ過ぎて、寝られない」
「子供」
減らず口には報いを与えるものとする。
「犬」
「あー!」
存分に義妹をなぶって満足した孝子は、再びロンドを抱え、那美の上から降りた。昂然と勝ち名乗りを上げる。
「思い知ったか。戦利品として犬はもらっていく」
「返せー」
「寝ろ」
孝子は再び外に出た。ロンドを地面に下ろし、首輪を付けてリードと接続する。
「犬。お散歩に行くよ」
行く先は、舞姫館だ。往復だけでも相当な時間はつぶれる。誰か起きていれば、雑談に付き合わせて、さらに時間はつぶれる。隙のない、と孝子は信じた計画の全容となる。浮足立つときに考え付くことなどは、大抵、ろくなものではない、という適例だった。




