第五七三話 スイートホーム(五)
いいかげん抱腹してみせた後に、孝子は話題の転換を開始した。
「私のことは、どうだっていいんだよ。おっさん、知ってる?」
「何を」
「近々にアメリカで音楽の賞の発表があるんだけど」
「今日です」
尋道の補足が入る。「ワールド・レコード・アワード」の授賞式だ。
「今日だって」
「ああ。剣崎か」
氷室が手を止めた。
「あいつ、今、アメリカに行ってるんだっけ。有望らしいじゃない。もし取ったら、そもそも負けていたけど挽回不可能な差になるな」
「そうですね。個人の嗜好はあるにせよ、私、剣崎龍雅の名前は知ってても、氷室勝成の名前は知らなかったし」
「だろう」
程よく話がそれた。この流れを継続する。
「サッカーなら、何をしたら剣崎さんを逆転できそう?」
「すごい、っていうのは知ってるんだけど、どれくらいすごいかは、いまいち、わかってないんだよな。ああ。去年、あいつがもらった賞ね」
「単純な比較は難しいですが、知名度だけなら、世界選手権のベストエイトで抜けると思いますよ。サッカー世界選手権の威光は絶大ですものね」
再び、尋道だ。
「おっさん。ご予定は?」
孝子の問いに氷室が返してきたのは、片頬だけの笑みであった。
「難しいな。選手としては、とうが立ち過ぎてる。指導者のほうは、今が絶好のチャンスだけど、準備もつてもない」
「今?」
奥村紳一郎、佐伯達也、伊央健翔らの名を氷室は挙げた。イギリスリーグのベアトリスFCで活躍する三人衆は、カラーズがマネジメント契約を締結しているアスリートたちだ。
「あの三人って、そんなにすごいんですか? 私の知る限りは、割とぽんこつ気味な人たちなんだけど」
「すごいよ。特に奥村だな。世界のサッカー史を俯瞰しても、五指に入るぐらいのタレントだよ。あんなやつが、この日本に生まれるとはな。あいつが現役のうちだ。次の次、ぐらいまでか。いや、その次だって、あるかもしれん。日本代表は、相当、いいところまで行くと思う」
次の次、というと、八年後になる。孝子と同い年の奥村は三二歳になっている計算だ。その次なら、なんと一二年後、三六歳である。
「ないな」
言下に孝子は否定した。
「おや。社長さん、さっきから随分と辛いね」
「実力について言ってるんじゃないよ。モチベーションの問題。下手をすると、次だって危ない。あの人、そんなに長くやらないね」
氷室の顔色が変わった。サッカー界の人間としては、ゆゆしき発言には違いなかった。
「何か聞いてるのかい?」
「聞かなくても、わかる」
あぜんとする氷室に対して、孝子は言葉を継いだ。
「準備もつてもない、って言ってたけど、世の中、何が起こるかわからないし、一応、教えておいてあげる。サッカー界の常識で奥村の紳ちゃんを測ろうとすると失敗するよ。よく、天才となんとかは紙一重、っていうじゃないですか。あの男は、私が知っている天才の中でも、最高峰の逸物です。世界選手権だろうと関係ないね。十分に稼いだら、紳ちゃん、辞めるよ」
葛藤が、あるようだった。孝子の言はうなずける。自分の知っている奥村紳一郎は、一風変わった男、ではあった。ただ、世界選手権だ。世界選手権なのだ。サッカーに生きる者が、世界選手権をむげに扱うなど……。サッカー界の常識の範囲内で生きてきた男の顔には、そう書いてある。
「信じたくないなら信じなさんな。でも、見ててみ? そのうち、衝撃の引退宣言とか、あの人、やらかすよ」
「そんな、二〇代のうちに辞めて、あいつ、どうするんだ」
「決まってる。お母さまの元に戻って親孝行。紳ちゃん、そのためにお金を稼いでるんだから」
母子家庭に育った奥村が、女手一つで自分を養育してくれた母親に対して、強い崇敬の念を抱いている事実は、つとに有名な話だ。ある、かもしれない、と不安が立ち勝ったらしい。氷室は瞑目した。
アーティ・ミューアの『My Fair Lady』が「ワールド・レコード・アワード」四大賞典の一、「最優秀楽曲賞」を受賞したのは、その日の日本時間正午過ぎのことであった。




