第五六話 姉妹(九)
「姉さんが、大学三年? 四年だっけ?」
「三年」
「三年か。姉さんが、静を授かった年ね」
静が、こくりとうなずく。
「今までの話で、だいたいは想像できると思うんだけど。さあ、ばあさん、怒った。兄さんとは別れさせて、改めて婿を取らせる、って言い出したの」
実際は、「別離」と「堕胎」が、神宮寺美栄の厳命であった。美咲も、この「生態」までは知らせない。周囲の大人たちも、暗黙裏に、これを是とする。無論、死者のためではなく、生者のため、である。
「でも、姉さんは従わなかった。隆行さんと絶対に結婚します、って。ばあさん、さらに怒って、姉さんに、勘当するぞ、って。それでも、姉さんは引かなかった。今はもう面影もないけど、昔はおとなしい人だったのよ。その人が頑張ってるのを見て、私もなんとかしなくちゃ、って思って」
姉妹の視線が合って、片方は微笑、片方は苦笑である。
「いや、ひどかった。姉さんの結婚を認めて、って言ったらさ、お茶の入った急須を投げ付けられて。さすがにお父さんも怒って。お父さんが怒鳴ったの見たの、後にも先にも、あのときだけよ。でも、ばあさんには効かなかったのよね」
美咲の話は続く。
「今だから言えるけど、お父さんが、私に言ったのよ。あの人とは別れる。美幸と隆行君と、生まれてくる赤ちゃんと、そして、美咲は、必ず私が守る、って」
発言の主とされた人物は、腕を組んで瞑目である。驚きの表情の娘夫婦は、やがて深々と黙礼だった。
「それいいな、って思ったんだけど。なんか、さあ、ばあさんにやられっ放しなのが、ちょっと腹が立って。駄目元で成美叔母さんに相談したの」
神宮寺成美は先代の妹である。中学進学と同時に寮暮らしを始めると、そのまま高校、大学と外界で過ごし、舞浜大学病院に奉職した後の住まいも職員寮だった。神宮寺家から常に距離を置き続けてきた成美には、めいの美咲も、このときまで、実は、ほとんど面識がなかったのだ。
舞浜大学病院の寮を訪ね、事態を説明した美咲に、成美は、らしい、と乾いた笑いで応じた、という。
「うん。私がなんとかしましょう。今日、行く。全員、集めておいて」
約束どおりに現れた成美と美栄との会談は、成美のワンサイドゲームだった。出された茶を口に含み、これは駄目か、とつぶやいた成美に、美栄が問うと、こう返したのだ。
「これを、あなたの顔に引っ掛けるつもりだったけど、熱過ぎる、と思って」
渋面の美栄に、成美は畳み掛ける。
「姉さん。隠居なさいな」
美栄のせいで神宮寺の総領娘が失われようとしている。このままでは先人に申し訳が立たない羽目になる。故に、隠居せよ。後継は美幸とし、成美はその後見となる。急須どころか、鍋でも飛んできそうな成美の言に、美栄は全く反論しない。
「どうしてか、私にはけんかを吹っ掛けてこないのね、あの人は」
嫌なら美幸と隆行の婚姻を認めよ、という成美の提案を、なんと美栄は承諾した。
ただし、だ。
「『美』を名に用いることを禁ずる」
男女を問わず、神宮寺家では「通字」として「美」を用いるしきたりがあった。つまり、生まれてくる子を神宮寺家の正統とは認めぬ、というのである。
「いいじゃない。お腹の子が大きくなったころには、どうせ、この人はあの世に行ってるでしょうし。今は、はいはい、ってうなずいておきなさいな」
美栄の眼前で、成美は美幸に、こう諭したという……。
「まさか、あそこまで強烈な人とは知らなかったんで。本当に驚いたわ。……そうだ。静、那美」
美咲の声に、静と那美は叔母の顔を見つめる。
「あなたたちの家だけど、成美叔母さんが建ててくれたのよ。残す当てもないし、ばあさんと一緒だと胎教に悪い、って」
「え。そうだったんだ……」
「そうだったの。もう、結婚を後押ししてもらうわ、家を建ててもらうわ、で、そこの二人、成美叔母さんに恩義を感じまくっちゃって。それで、余計なことをした」
「……私の名前?」
那美の声に、美咲はうなずいた。
「余計なこと、とか言って、ごめんね。でも、当時は、成美叔母さんの読みをいただくの、私もお父さんも大賛成してたんだ。二人だけの責任じゃない」
「成美叔母さまだけが、反対だったのよね。静に『美』を入れなかった以上、次の子にも『美』は入れないほうがいい、って」
うつむき気味に美咲の話を聞いていた美幸が、ぽつりとつぶやいた。
「そう。子供の観察眼を、甘く見るな。きっと静は自分の名前に疑問を持つ、と。なのに、私たちは、成美さんへの謝意を表することばかりに夢中になって。……その結果、静につらい思いをさせてしまった。孝子と那美にも、巡り巡って迷惑を掛けてしまった。本当に申し訳なかった。許してほしい」
博に続いて美幸、隆行、美咲も一斉に頭を下げる。
「……静ちゃん、那美ちゃん。皆さま、こうおっしゃってるんだし、私に免じて、許してあげて」
「う、うん。そもそも私の気にし過ぎだったんだし。何も、おじいちゃんたちには……」
静は素直である。
「孝子お姉ちゃんは、どうするの?」
謝罪を受けたうちの一人である孝子の、妙な立ち位置の物言いに、那美は気付いたようだ。
じっ、と孝子が見る。にっ、と那美が笑う。
「わかった。那美ちゃんも仲間に入れてあげる」
孝子は大人たちに向けて手のひらを差し出す。那美も、それに倣う。
「慰謝料をください。私たち、すごく傷付きました」
孝子以外が、全員噴き出した。同時に、理解した。常に養家への敬意を欠かさないこの養女の意図は、場を和ませるためのもの、と。
「静ちゃんは許したので、慰謝料はいいです。静ちゃんの分は、私がいただきます」
「ええっ!?」
「法学部になんか入れるから、こういういやらしい言い草をする。医学部を説得できなかった姉さんのせいだわ。私の分は姉さんが払ってよ」
「反省が見られないので、美咲おばさまは支払額を三倍に増やします」
「悪徳! 悪徳法学部生!」
笑い転げながら、静が叫んだ。那美は孝子に抱き付いている。大人たちも、笑顔、笑顔、笑顔、だ。神宮寺家をにわかに覆った暗い雲は、あっさりと消え去ったようだった。




