第五六〇話 神宮寺孝子の肖像(一四)
一夜明けても依然として憤まんが収まっていないとは、よっぽど自分は『花咲人』を気に入ったらしい。明るく朗らかでいながら、しっとり落ち着いた感も備えている。二人の門出を祝うには、誠にふさわしい楽曲であった。それを、デュエットなどという、余計な構成にしやがって。台無しではないか。使えない男だ。関隆一は。
鬱々としたまま舞姫館に入ると、オフィスには、この日も尋道がいた。
「いらっしゃい。今日も、おばさんにお願いしましたよ。昨日に続いてだったので、調子悪いのか、って心配されてしまいました」
「そりゃあ、真面目な人だもん。で、どうしたの?」
「『花咲人』について、ご報告がありまして」
「ふうん」
ひとまず受け流してコーヒーメーカーに向かった。
「飲む?」
「いただきます」
湯気の立つ二つのカップを挟んで、孝子は改めて尋道と相対した。
「どんなお話?」
「『花咲人』を、殊の外、お気に入りのようでしたので、基本的には、あの歌を余興に使う方向でいこう、と思うのですが、よろしいですか?」
敏腕マネージャー氏、よく見ていた。孝子は身を乗り出した。
「うん。でも、どうやって?」
「まず、『花咲人』を当てる段については、剣崎さんと関さんに一任しましたので、僕たちはヒットの祈念をするだけです」
「楽でいいじゃない」
「次に、当たった場合と当たらなかった場合ですが、当たった場合、余興のパートナーは関さんが務めてくださいます」
「あの暇人」
「思わしい結果が出なかったときは仕方ありません。邦楽のど定番でいきましょう。いくつかピックアップしておきました。後で確認してください」
「ほい。ただ、あの曲を、あの二人が売り出すなら、当たる気がするけどね。剣崎さんのアレンジ、聞いてみたいな」
剣崎の名を出した途端に孝子は思い至った。
「剣崎さんって、今、どこにいるの?」
長年、音楽家が仕事場として使ってきた舞浜駅西口のビルは、施工主、カラーズで建て替え工事の真っ最中となっていた。いずれ同所に帰還予定の剣崎が、現在、いずこに仮寓しているのかを、孝子は知らない。
「トリニティさんの本社でお仕事されていますね」
「遠いね。例のビルって、いつごろ、完成するの?」
「さあ。全て斎藤さんにお任せしていますので」
「らしくない。放り投げてるじゃない」
尋道は肩をすくめた。
「報告とか相談とか、あの人はしたがってるんですけど、実際問題として、どちらも必要ありません。あの人に独り決めしていただくのが、早くて確実なわけですし。ことわざにあるでしょう。船頭多くして船山に上る、と」
ただ、と言葉が継がれた。
「店子の手前もありますし、一度、関係者を集めての報告会を開いていただいても、いいかもしれませんね。聞いてみましょうか」
「今は税理士の繁忙期らしいけど、あの人だし、すぐにおっぱじめるよね」
案の定である。打診を受けたみさとは、いつでもかかってこい、と豪語したとか。そんな覇気を受けて、最終的に尋道が定めた報告会の日取りは、翌週末の土曜だ。
「なんで、トリニティになんか。あと、その時間は、何」
日取りに続き、報告会の開催場所は東京都目堂区のトリニティ本社、集合時間は正午、ただし、孝子のみ午前九時に現地入りしてほしい、と尋道は言った。場所も不審だが、時間に付いたただし書きは、もっと不審だった。たださずにはいられなかった。
「まず、トリニティは、剣崎さんのリクエストです。立て込んでいて、動けないというか、動きたくないそうで。じきにアメリカじゃないですか、あの方」
「なんで」
「ワールド・レコード・アワード」だ。剣崎は、『My Fair Lady』でノミネートされたアーティのプロデューサーとして授賞式に出席するため、渡米する。受験生の孝子は早い時期で不参加を決めていたので、思い至らなかったのである。
「アートも行くの?」
「ええ。試合と試合の合間なので、行ったら戻る感じになるみたいですが」
「ふうん」
「あと、『花咲人』の仮歌が欲しいそうです」
ようやく場所と時間が完全につながった。孝子への配慮なのだ。先んじてのトリニティ入りを要望された理由は、仮歌のレコーディングを秘密裏で行うため、ということになる。
「差し支えなければ、お願いできますか?」
「よいよ」
孝子は尋道を全面的に信頼している。この男の決定であれば素直に受け入れておくとする。『花咲人』の仮歌、請け負ってやろう。




