第五五話 姉妹(八)
静が、それ、に気付いたのは、いつだろうか。自分の名前を漢字で書けるようになったときか。それとも、もっと以前か。音で、それ、を感じていたのか。今となっては、当人にすらはっきりとしない。
なぜ、自分の名前には「美」が付いていないのか。「み」、だ。母の名は美幸。叔母の名は美咲。妹の名は那美。祖母の名は美栄。大叔母の名は成美。それより上の世代の名は、静は知らない。しかし、根拠のない確信はある。きっと、「美」が付いている、と。
漠とした不安は、やがて不審となっていった。何か、あった。何が、あった? しかし、ここで静を惑わせたのは両親の態度だった。疑惑に曇った静の目にも、両親の公明正大さは明らかだった。自分と妹との間には、いかなる差別、区別もない。
では、どうして……? 少女期のたくましい空想の翼を、いくら羽ばたかせても、答えにたどり着くことはなかった。いっそ、ただしてみればよかったのだ。しかし、どんな重苦しい返答があるかと想像すると、おじけづいてしまって、できなかった。
なんとなく、自分は神宮寺家の正統ではない、らしい、という想像が、静の中での「事実」になり始めていた。そして、那美こそ正統、らしい、という思いが、妹との関係を難しいものにした。
「順番は、私が最初なの。私が冷たくなって、那美も、私に冷たくなって。悪いのは、私」
静の告白が終わっても、三人は三体の彫像のままだった。実際、他の二人は動けない。
今でも名門と呼ばれる家では、代々継承されている「通字」を名に入れている場合もある。神宮寺家の家格というものを、正確には麻弥は知らない。しかし、「本家」の豪壮さを見るだけでも、なまなかでない、ことだけはわかる。故に「通字」を持っていたとしても、不思議ではないのだろうが……。雄一と厚子の一人娘である麻弥には、なんともぴんとこない話だ。
そして、那美である。那美にとっての静の告白は、言われてみれば、だ。静以外の血族の名に関する相似を、このとき、初めて意識したのだ。例えるなら、遠景、だった。見えてはいたが見てはいなかったものなのだ。これは、苦悩は基本的に当人限りのものである、という事実の典型だったろう。
三人の固形化が解けたのは、支払いを済ませた美幸が隆行と共に入室してきたときだ。猛然と那美が突撃した。この奔放な神宮寺家の次女は、腹蔵ということをしない。
「お母さん。静お姉ちゃんに『美』の字がないのは、どうして!?」
美幸の表情は、静を落胆させ、那美を逆上させた。母親の、初めて見る崩れた顔だった。やはり、何か、あったのだ。灼熱して、詰問の言葉を投げる那美をとどめたのは麻弥だ。がっくりと肩を落とす静のほうに那美を押しやると、淡々といきさつを語る。親友の不在の理由も、この際、と麻弥は隠さない。
「……麻弥ちゃん、今夜は、予定は?」
「え? いえ、特に、何も」
麻弥の話の後、ぼうぜんと動けない美幸に代わったのは隆行だった。
「じゃあ、孝子を連れて、うちに来てくれるかな。あの子は、きっと遠慮する。誰かが引っ張ってこないと」
隆行は孝子を理解し、把握していた。
「なんで夜なの。孝子お姉ちゃんを呼んで、今、ここで話せばいいじゃない」
たたき付ける声は那美だ。
「お義父さんと美咲ちゃんにも立ち会ってもらう。二人も事情は知っている。後に残さないよう、全部、話すよ」
静は、立ち尽くしている。
那美は、その肩を抱いている。
美幸は、深くうつむいている。
隆行は、天井を見上げている。
四人は、麻弥が、出ましょうか、と声を掛けるまで、ずっとそれぞれが、その姿勢のままだった。
孝子が鶴ヶ丘の神宮寺家に顔を出したのは、その日の午後六時を回ったころだった。孝子を送った麻弥は、留守番の春菜との夕食のために帰った。春菜には、静の快気祝い、孝子を送ったらすぐに戻る、と告げていた。こういう場合の麻弥の、しれっとした物言いは、なかなかのものだ。
話し合いは「本家」で行われるという。訪れると、早速、静、美幸、隆行らの謝罪攻勢だった。しかし、自分に関していえば、静と那美の反目について直接の責任はなかったわけで、頭を下げられても、孝子も困る。玄関にくぎ付けになっていた孝子に救いの手を差し伸べたのは、義祖父の博だ。大作りの顔と体の、堂々とした偉容で三人を押しのける。
「後にしなさい。順序立てないと、さらに孝子を困らせるだけだ」
張りのある声で孫、娘、娘婿をたしなめると、作務衣の袖で孝子をくるんで居間へといざなった。本家での孝子の席は、床の間を背にして座る博の、右手二番目となる。左に美幸、右に那美、正面に美咲、その左に隆行、右に静、という順だ。
「始めるか」
全員が席に着いたところで、切り出したのは博だった。
「お父さん、始まらないじゃない」
一〇秒後の、美咲の指摘である。
「うん。さて、何から話そうか……」
一家の重鎮の困惑した様子は、孝子、静、那美に不幸な想像を抱かせかかる。少女たちの気配を察知してか、美咲が続ける。
「大丈夫。大丈夫よ。今日は、私が仕切ったほうがいいみたい。この人たちは駄目ね」
美咲の言を肯定するように、他の大人たちはわずかにうつむく。美咲の視線が静に向いた。
「静は、ばあさんのことは、覚えてる?」
「……ううん」
「何歳、だったっけ?」
「二歳のときよ」
誰にともなく、といったふうの美咲の言葉に、美幸が返す。二人の母である神宮寺美栄の没年である。
「二歳か。じゃあ、覚えてないね。……うちのばあさん、ってのが、なんていうか、ドラマに出てくるような権高な人でね。今は」
美咲が居間の中央の長卓を指さした。
「お父さんが上座で、次に義兄さん、姉さん、って順番で座ってるでしょ。昔は、違ったんだ。上座にばあさんが座って、次が姉さん、あなたたちから見たひいじいさん、お父さん、私、って順番だったの。意味、わかる? 自分の親よりも、夫よりも、総領娘を上に置いてたのよ。ひいじいさんも、お父さんも、婿だしね」
美咲の話は続く。
「そんなばあさんだ。三〇すぎても婿のなり手がなくてね。今じゃないんだよ。四〇年以上前の、三〇すぎの未婚の女。ちょっとした問題物件よ。ひいじいさんに聞いたんだけど、見合いしても、あまりに偉そうで、相手がおじけづいちゃう、って。仕方ない。ひいじいさんが教え子だったお父さんを口説き落として、ばあさんとくっつけたんだって。まだ学生だったお父さんに、三十路女を押し付けたのよ」
「これ。美咲……」
「いいの。一八年前のうちのことを知っておいてもらわないと。一八年前のうちには、そういうばあさんがいた、ってことを」
一八、という数字に、静が居住まいを正す。静は、今年で一八歳である。
「お父さん、今でこそ威厳たっぷりだけど、ばあさんが生きてたころは、大きな体を小さくして、ぺこぺこしてたのよ。私たちも、ばあさんの前だと、背筋ぴーん、よ」
美咲は正座を崩してあぐらをかくと、両腕で体を支えて、顔を天井に向けた。
「ひっぱたかれたことも、一度や二度じゃなかったね。不心得者、って、時代劇か」
その後、しばらくは、ばあさんの生態を知っておいてもらう、という名目の美咲の愚痴が続いたのだった。
「美咲。それぐらいに」
繰り言になってきた美咲を、博が語気を強めてたしなめた。
「失敬、失敬」
再び正座に戻った美咲は、ぺこりと一同に頭を下げた。
「なかなか言う機会がなくてね、つい。お父さんも姉さんも、亡くなった人のことを、って言って、聞いてくれないし。まあ、私は二人ほど人間ができてないのさ、っと」
美咲が左腕の時計に目を走らせた。
「私の話、長くなり過ぎたわね。後は、さっと済ませて、お祝いにしようね」
時刻は午後七時を過ぎている。静の快気祝いのため、すしの名店「英」の仕出しが別室に用意されているのだ。