第五五七話 神宮寺孝子の肖像(一一)
もぞりと低気圧の目が動いた。尋道の視線が向かった先は、孝子が持ち込んできたナジコ・シータのカタログだ。
「神宮寺さん。それ、いいですか」
「ほい」
受け取ったカタログを、眺めるのかと思えば、さにあらず。尋道はスマートフォンを取り出してカタログの撮影を始めた。
「何をしてるの?」
「ナジコの車なんか買って、まずくないか、と言って、あなたを不機嫌にさせる人に先んじるんです」
そんなことを言ってくるのは麻弥しかいない。
「そういえば、前に、渡辺原動機ならマニュアルに乗ってもいい、みたいな話を、重工の誰だかと付けてくれたんだよね。きれいさっぱり忘れて、買っちゃったけど、まずかった?」
舞浜ロケッツの支援を受けるなど、神奈川舞姫は高鷲重工業株式会社と縁の深いチームである。その関係者ならば、当然、重工製品をひいきとすべきだが、ここで困るのは一部のマニュアルトランスミッション愛好者、具体的には、孝子、だ。なぜなら重工はマニュアル車の製造を取りやめている。ならば、と動いたのは尋道だった。重工と協業関係にある渡辺原動機のマニュアル車であれば、差し支えなかろう、と重工の自動車事業本部を統括する螺良千歳に掛け合った。居丈高な企業として知られる重工相手には、この程度の配慮が必要、という逸話になる。
「構いません。もう二年近く前になりますか。当時とは、僕の心持ちも、だいぶ、変わりましたので」
スマートフォンから目を離さず、尋道は返してきた。撮影は終わり、麻弥に先んじるためのメッセージを推敲しているようである。
「どういうふうに?」
「あなた以外に尊重しなくてはならないものなんてなかったんですよ。たとえ、重工さんであっても、ね。ああ。といって、この車で重工さんの本社に乗り込んだりしないでくださいよ」
「どっち」
「わざわざけんかを売るようなまねはよしましょう、と進言しただけです」
「結局、何が言いたいのかね。君は」
「今後とも変わらず、存分に振る舞ってください。及ばずながら、あなたを掣肘しようとする全ては、僕が排除しますので」
思い切った宣言に周囲が息をのむ中で、孝子だけは笑っている。
「郷本君って、他の人の一〇倍ぐらい、私を買ってくれてるよね」
「これまでの、あなたの軌跡を承知していれば、そうならないほうがおかしいんです。僕が一〇倍買っているのではなくて、他が過小評価しているだけですよ」
尋道氏、当たるべからざる勢いである。
「衝動買い、いいじゃないですか。どしどしやってください。僕の根拠のない予想ですが、こちらで、また、何か、起きるような気がするんですよね。はい。ありがとうございました」
尋道は、いったん、カタログを掲げて、その後に返してきた。メッセージの送信が終わったようだ。
「ちゃんと見た?」
「スマホ越しに」
「見てよ。正治さんのデザインだよ。美しいんだよ」
「では」
突き返されたカタログを、端然として尋道は読み進めていく。
「確かに、おしゃれだ。納車が楽しみですね。いつです?」
「結構、先なんだよね」
ナジコ株式会社本社門前販売店の営業氏によれば、好事家中の好事家しか買わないような、マニュアルトランスミッション仕様のオープンカーは、生産枠が少なく、納車に時間がかかるそうな。半年程度は見てほしい、とのことだ。
と、尋道から受けた納期についての問いに答えた直後である。
「こちらに着かれた時点で、買った、とおっしゃっていたので、もしかしたら、とは思っていたのですが、那古野で買われたんですか?」
新たな問いが尋道から来た。
「そう」
「あなたのことだ。納車も、点検も、自分で赴かれるんでしょうね」
「当たり前じゃない」
「長沢先生、喜ばれたんじゃないですか?」
見抜かれたらしい。オフィスでは察しのいい何人かが、はっとした気配があった。
「お前よー、ばかかよー、って言われたけど」
「にやにやしながら?」
「うん」
尋道は、改めてカタログを見返している。その口元には、微笑が浮かんでいた。
「いい話を伺いました。やはり、仰ぐに足る人なのかな、と思いますね」
称えられれば、孝子のような女でも、いい気分になるものだ。それでも、黙礼はやり過ぎであろう。大げさな。いくらなんでも、こそばゆかった。やめ、やめ、とやるしかないではないか。




