第五五六話 神宮寺孝子の肖像(一〇)
昼下がりの舞姫館に孝子が入るや否や上がった嬌声は、伊澤まどかによるものだった。一直線に突っ込んでくる。
「すっごい美人さんじゃないですか!」
抱えていたロンドがまどかの目当てのようだ。
「お前、美人だったの?」
ふわりと持ち上げて目を合わせると、ロンドは鼻先で孝子の鼻をつつく。
「何、いい気になってるの?」
「慣れてますねえ。噂のわんわんですか?」
ロンドを、その呼称で呼ぶのは義妹の那美しかいない。彼女経由でまどかはロンドを承知していたのだろう。
「うん」
「本当に名前、わんわん、なんですか?」
「違うよ。ロンド」
「おしゃれだ! お姉さん。ロンドちゃんを抱っこさせてください!」
「伊澤さんは、犬、好きなの?」
「はい。うちでも飼ってます。同じ赤柴ですよ。ミックっていいます」
目尻を下げたまどかがロンドに肉薄する。
「そう。じゃあ、抱っこなんか、お手のものだね。ちょっと持ってて。郷本君よ。お土産を運ぶの手伝っておくれ」
「お手伝いは伊澤さんで、ロン君の抱っこは僕、という手もありますが」
「うるせえ」
ロンドをまどかに預けて、孝子は外に出た。続いて尋道が来る。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「帰りはロン君の写真を送っていただけなくて残念でした」
習慣化していた尋道への写真の送信を、帰途では怠っていた孝子だった。
「私の、でしょう?」
「いえ。ロン君の」
おどけたところに生真面目に返されて、孝子は閉口する。
「これだよ。ごめん。那古野までは、それどころじゃなくて。どの面下げて、長沢先生に会えばいいのさ、って」
「ああ」
「で、こっちに向かう途中は、いろいろ浮かれてて、つい。そうそう。車を買ったんだ。衝動買いしちゃったよ」
車の中から引っ張り出した、分厚いカタログを開きかけて、孝子は手を止めた。陽光の柔らかな日とはいえ外は寒い。
「中で話そう」
館内に戻った孝子は、カラーズ分を取り置いた上で土産を舞姫島の井幡に託した。
「伊澤さん。犬と戯れてないで、お菓子を食べなよ。郷本君。さっちゃん。カラーズも休憩しよう」
一服のさなか、孝子が改めて尋道にナジコ・シータのカタログを提示しようとした時だ。
「お姉ちゃん!」
すさまじいがらがら声は静である。午後の練習に備えて舞姫館を訪れたところ、表にとまっている孝子の車に気付き、勢い込んで突入してきたに違いなかった。
「よう」
「お姉ちゃん。なんで、ここに!?」
「おうおう。すごい声。あんまり大きな声は出さないほうがいいんじゃないの? お土産を渡しに来たんだよ」
「そんなの」
わざとらしいこと、この上ないせき払いがオフィスに響いた。尋道だ。
「静さん。よろしいですか」
尋道は外を示した。連行、と称してよいだろう。静が引っ張られていった。そんなの、に続いたのは、おそらく、後回しにして家に戻れ、といったような意味合いの言葉だったろう。これを阻止し、発言者に対して訓戒を与える目的とみた。確かに、孝子、言われていたら、かんしゃくを起こした可能性が高かった。
果たして、数分を経て戻ってきた二人の表情といったらない。憤然の見本と、悄然の見本と、であった。
「怖い。怒ってる顔、初めて見たかも」
「そうですか」
「何を、そんなに怒ったの?」
「燕雀安んぞ、ですよ。寧日なく立ち働く我々を、まずはねぎらおう、という鴻鵠の志がわからないのか、と」
孝子は大笑した。
「ひどいなあ。静ちゃんを燕雀呼ばわりなんて」
「静さんだけでなく、あなたの周囲は、みんな、そうですよ。で、時々、気の荒い鴻鵠のかんに障るようなことをさえずっては、ずたずたにされる」
尋道の視線が動いた。舞姫島の方向だ。
「お二人は、違いますよ。お二人も鴻鵠なので、分別があって、こちらの縄張りには入ってこない。どうして、他はそれができないんでしょうね。まあ、だからこそ、燕雀なんですが」
呼び掛けられた中村と井幡は首をすくめている。
「さっきから仰々しいなあ。怒ってるのやら、怒ってないのやら」
「仰々しい物言いを、あえて考えて、気を紛らわせているんですよ。でないと、罵詈雑言が飛び出してしまいそうなのでね」
いけない。これは本気で言っている。孝子ですら、突入すればただでは済まない低気圧の存在が、ここにあった。賢明なる鴻鵠ならば、選択肢は一つとなる。逃げるにしかず。これだ。




