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未知標  作者: 一族
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第五五四話 神宮寺孝子の肖像(八)

 再度の松波宅には春谷をたった翌日の夜に到着した。およそ物おじするということのない孝子だが、このときばかりは緊張の面持ちであった。

「犬。吐きそう」

 我知らず独白していた。無礼を働いた恩師に、どの面下げて会えばよいのやら。電話で謝罪は済ませてあるとはいえ、敷居が高い。そう。敷居が高い、とは、こういった場合でこそ使うべき言葉なのだ。嘆息、嘆息、である。

 そんなふうに、もたもたしていたものだから、車を降りると同時に長沢に急襲された。

「先生! 先日は――」

 言い終わるよりも早く抱きすくめられた。頭をくしゃくしゃとなで回される。

「よく来た!」

 重ねての謝罪は無用らしい。潤みかかる目と声を必死に持ち直して応じる。

「来ましたよ! お土産、いっぱい買ってきました!」

「よしよし。福岡はおいしいもので有名だしな。早速、もらおうか。あ。お犬を忘れるな」

 連れ立って入った松波宅内では、一転して孝子、恭謙に振る舞う。この家の一員となる人に対して暴言を吐いたのだ。長沢の大腹中とは分けて考え、行動しなくてはならなかった。

 その夜、孝子はぐっすりと眠った。恩師と、彼女の新しい家族に温かく迎えられた安堵に加えて、間断のない運転の疲労が出た。おかげで、翌日、目が覚めたのは正午寸前だ。寝過ごした。ロンドに食事を与えなければ、とあてがわれた二階の一室中を見回しても愛犬の姿はない。

 泡を食って部屋を出れば、階下よりロンドの遠ぼえが聞こえた。降りたところでロンドを抱いた松波夫人と鉢合わせだ。

「あ。やっぱり。お姉ちゃん、起きてたね。ずっとおとなしかったのに、突然、ほえだして、すぐにわかったよ」

 なかなか起き出してこない孝子を見かねて、夫人はロンドの世話をしてくれていたのだ。赤面ものの失態といえた。

「すみません。こら。お前。騒ぐなよ」

 受け取ったロンドにすごむも、犬め、どこ吹く風で頬擦りしてくる。

「お昼は一緒に食べましょうね」

「お手数をお掛けします」

 夫人心尽くしの昼食をいただき、一服していたところに、正治が帰宅してきた。孝子のためにわざわざ半休を取ってくれたのだ。

「よくおやすみになれましたか?」

「はい。ついさっき起きたぐらいに」

「行けそうです?」

「もちろん」

 この日の午後には二つの予定が入っていた。主は、松波一家との晩餐になる。地鶏をふんだんに使った一席を設けてくれるとか。これはこれで期待するとして、より重要なのは、従、のほうだ。夜までのつれづれの解消に、と正治が提案してくれたナジコ製マニュアル車の試乗である。神奈川県舞浜市と福岡県春谷市間をマニュアル車で往復するとは、定めし好事家に違いない。取って置きを用意するので、いかが、と誘われて、全力で乗った。

「表にあります」

「はい」

 孝子はいそいそ外に向かった。留守番を命じられた愛犬の、物悲しい鳴き声は、無視だ。あった。松波宅の門前にとめられているホワイトとベージュのツートンは、平べったく、長い。剣崎やらカラーズの社用車やらと同じクーペだ。

「実は、僕がデザインを主導した車なんですよ。シータといいます」

 背後から正治の声が掛かる。

「おー」

 近づいて、気付いた。屋根の部分の素材が他と違う。ただのツートンではなく、オープンカーなのだ。

「正治さん。これ、開くんです?」

「ええ」

 孝子の隣に立った正治は、取り出した車の鍵を操作した。車の屋根がするすると開いていく。

「意外とスムーズなんですね」

「カタログ値で、一〇秒、かな。では、参りましょう」

 鍵を受け取り、孝子は運転席に着いた。

「正治さん。屋根を閉じるのは、どのスイッチですか?」

「何をおっしゃいますやら。このままで走りましょうよ」

 一月の寒空の下を、オープン状態で走れ、というのか。孝子は助手席に乗り込んできた正治をまじまじと見た。

「寒くありませんか?」

「寒くありません。ウインドルーフといって、ほら、店に開放型のショーケースがあるでしょう。冷凍食品とかの。あれと似たような理屈のモードがあるんです。気流で外気の侵入を防ぐんですね。上着なくても平気ですよ。大丈夫。だまされたと思って」

 わかるような。わからないような。いまひとつ、ふに落ちないのだが、自信ありげにほほ笑む正治の手前、覚悟を決めるしかなさそうだった。

 行くとするか。

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