第五五三話 神宮寺孝子の肖像(七)
薄目を開けたざまは、ほとんどしかばねだ。孝子は倒れ伏していた。実家の居間で、もう三〇分も身動きせぬ。疲れ果てていた。ただし、神奈川県舞浜市から福岡県春谷市までの道程を、ロンドの世話をしながら丸二日かけて走破した疲労ではない。精神的なやつになる。
実家への到着と同時に、出迎えの倫世の母が口にした、舞浜へ一報を入れよ、の一言は孝子の精根を一瞬で枯渇させた。考えてみれば、恩師を抑えていたぐらいの養母である。隣家の幼なじみ宅に手が回っているのは当然といえた。くどい。くどい。自分の行動に、なんら落ち度はない、と確信している孝子なので、養母の周到なやり口は、ありがた迷惑でしかない。まさしく、ほっとけ、だ。いっそ、このまま居座ってやろうか。
もう何度目か、という舌打ちの直後だった。視界の端から、ぬっとロンドが表れた。鼻先で孝子の頬をつついてくる。昼飯の催促だろう。そろそろころ合いである。
「勝手に食べろ」
無理難題を言った、とわかっているので起き上がった。次の瞬間に来客だ。玄関のすりガラスに映っているのは倫世の母の姿だった。もしかしたらロンドは、これを伝えようとしていたのかもしれなかった。
「たむママ。何か、ご用?」
引き戸を開けて顔を出した。
「おう。復活したか」
「まあね」
「郷本君から電話。連絡くれ、って」
殺到する着信を嫌って、スマートフォンの電源は落としていた。そのため尋道は倫世の母に伝言を依頼したのだろう。不必要な連絡をしてくる男ではない。何事かが出来したのだ。
「ありがとう。たむママ」
「うん」
用件は済んだはずだが倫世の母は動かない。正しく娘に受け継がれた鋭角的な顎をなでている。
「積悪の報いだな。猫をかぶるのも、ほどほどにしろ、ってこった」
生まれつきの性分を隠し、慎ましやかに生きてきたせいで、たかだか一〇〇〇キロ余のドライブごときで騒がれる、という倫世の母の言であった。かの烈母と長くつるんできた人だ。言うことが過激である。
「たむママ。こっちのままの私だったら、多分、捨てられてたよ」
「それは、違いない」
大笑を残して倫世の母は去った。見送った後はロンドの昼食を準備し、もりもり食べる様子を眺めながら、尋道に電話をかける。
「お疲れさまです」
「お疲れ。ご用は、なあに?」
尋道は、現在、静の付き添いで神宮寺医院に来ている、という。確かに、何事かが出来、していた。
「静ちゃん、何かあったの?」
「お宅で大立ち回りを演じたようで」
「誰と」
「主に、おばさんだそうです。お姉ちゃんを放っておいてあげて、と説得しようとして」
「勝てるわけない」
「ええ。なので、大声を出して押し切った、と。で、静さん、喉がかれてしまいまして。あまりにひどい声だったので、受診していただきました」
「そう」
終わった、と思った。養家の平穏を乱したとあっては、もう降参するしかない。
舌打ちだった。おとなしい義妹が、よくもやってのけたもの、とは思う。思う、が。元はといえば、連中が必要以上に、こちらに構い付けたのが悪いのだ。そして、その連中には、義妹も含まれていたのである。余計なことしかしない。
「すみません」
「え?」
「どうやら、僕のせいらしいんですよ」
尋道の表明した一〇〇パーセントの支持とやらが、静を動揺させた、とか。
「何。一〇〇パーセントって」
「今回の件について、あなたがどのような決断を下そうとも、支持する、ってだけです」
「具体的に」
「怒り狂って、福岡に帰る、とおっしゃっても、です」
「ああ。ちょっと考えた」
「やはり」
「でも、やめておくよ。愚妹の顔を立ててあげないとね」
「はい」
「戻りまーす」
「わかりました。お気を付けて」
通話は終わった。淡々とした声が快く耳に残る。あの男は、とんぼ返りにも動じない。皆が皆、こうであってくれればいいのだが、とかなわぬ願いはそこそこに、孝子はぴょんと跳ね起きた。土産をそろえに出る。出発は今日中だ。決めたからには、即、行動に移す。孝子の流儀だった。




