第五五一話 神宮寺孝子の肖像(五)
激発について尋道が知ったのは、一夜明けての朝だった。前日に引き続いての留守番を務めるため、舞姫館に赴いた時である。孝子の豹変を不審に思った長沢から神宮寺家にもたらされた一報が、静を経由して伝わってきた。
驚きはなかった。というのも、何か、あったらしい、とは昨夜のうちに察していた尋道なのだ。兆しは、那古野で一泊する予定と聞いていた孝子が、夜分に送り付けてきた写真だった。
「栗浜」
一人と一匹の背後に映ったチャンネル文字を、思わず口に上せていた。栗浜といったら三重県の北部に位置する市だ。宿泊予定だった松波宅のある愛知県那古野市を通り過ぎている。先方の都合が悪くなったとでもいうのか。心なしか孝子の表情が硬い、気もする。はて。
ここで、いくら不審とはいえ、孝子に確認を取ろうとしないのが、尋道の深謀遠慮になる。用件があるのなら、具体的に告げてくる相手である。その動きがない以上、先走りはするべきではなかった。無論、長沢に連絡を入れたりもしない。ただ静観に徹した。
結論から言えば、尋道は最善手を選択していたようだった。長沢にまでかみつくとは、相当、孝子はいら立っている。ここで、うかつにつついていれば、特大の怒声が返ってきたことであろう。
それはそうと、だ。過去に何度かあった孝子の短慮と比べても、指折りの深刻さに思えた。どう対処するか。思案のしどころになるかもしれなかった。
「郷本さん」
「はい」
「ご存じだったんですか?」
見れば、オフィスで相対していた静の顔には、軽い疑念の色が浮かんでいた。物思いにふけっていたようだ。巻き返しを図る。
「いいえ」
「本当に?」
「どういった理由で僕を疑うのでしょう」
純朴な静だ。少し押しただけで後ずさっている。論戦の相手としては、お話にならない。
「すみません。なんだか、驚いてないみたいに見えて」
「驚いてないだけで疑われるのは心外ですね。簡単ですよ。あの方は、自分の行動になんら問題があると思っていません。そこを、やいのやいの言われたら、それは不機嫌にもなるでしょう」
「でも、心配じゃないですか」
「そうですか。僕は全く」
信じ難いものを見るような目つきを尋道は無視した。イエスマンを自認する彼には孝子の行動の是非を問うつもりがない。合意形成の困難な者同士の議論は無益なのだ。
「心配は、するほうの勝手、とみることもできますが。少しは、そこに付き合わされる身になって考えてみてはどうです?」
痛烈な一撃の後、やがて、というほどには時を置かず、尋道は決断した。
「静さん」
「あ。はい」
「ここは旗幟を鮮明にしておくべきかと思いますので、あえて、宣言しておきます。僕は神宮寺さんを一〇〇パーセント支持します。以後、相談、報告の類いは無用に願います」
尋道が下した決断とは、自らのイエスマンとしての立場を貫徹すること、であった。尋道は孝子をカリスマ性のある人物とみている。頂くに足る魅力を備えている。一連のもめ事が、どのような帰結を迎えようとも、そんな彼女に付く。
例えば、孝子が帰郷する、と言い出したとしても、その決定は変わらない。帰省一つで、とやかく言われる現在のしがらみを絶って、去る。一見、突拍子もない飛躍に思えるが、気性の激しさでは人後に落ちない孝子だった。今回の荒れっぷりを勘案すれば、相手が恩義のある養家であったとしても、断行する可能性は否定できなかった。
孝子の帰郷を、起こり得る最悪の事態と仮定して、善後策を考えてみようか。尋道の身の振り方にも関わる。付く、にしても、実際に福岡まで付いていくのか。サテライトオフィスのような形で、舞浜から彼女を補佐していくのか。そもそも福岡の孝子は、何をなりわいに生きていくのか。現在、取り組んでいる法曹の道か。岡宮鏡子の音楽か。フローチャートの項目は膨大だ。
ふと静と目が合った。成り行き次第では、彼女とも、たもとを分かつことになるやもしれぬ。孝子が養家との関係に一線を引く決断をした場合には、先方と関係の深いカラーズおよび舞姫ともまた距離を置くのは必然となろう。そうなったときには尋道も両組織との関わりを断つ。静以外にも好意に値する善良の人たちの多いカラーズであり舞姫だ。情においてはいささか忍び難い気もするが、イエスマンの信条を放棄するほどではなかった。仕方ない、の一言で済ませられる。
たとうべきかな、神宮寺孝子――なのであるからして。




