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未知標  作者: 一族
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第五四八話 神宮寺孝子の肖像(二)

 静と尋道の面談など知る由もなく、孝子の勇往は続いていた。そのまい進を支えるモチベーションには、いくつかの種類があった。

 まず、狭小な自室への滞在を嫌って、いかに外出時間を長く取るか、などとつまらぬ腐心をする必要がなくなったことが挙げられた。一日の流れにゆとりができれば、随所から潤いがにじみ出てくる。この潤いが差し油代わりとなって、孝子の駆動輪を力強く回転させるわけだった。

 参加者たちの気概も、高品質の差し油といえた。特に、暇を見つけては舞姫館にやってくる関の熱心さは、上物と称してよい。

 しかし、なんといっても最高の差し油は、ふと思い付いた帰省だ。撮影が終了した暁に、卒業旅行の名目で福岡に行く。こちら、気付けばレッドゾーンに突入しそうになってしまうほど、質、量共に豊潤である。学生時代最後の長期休暇は、同時に、古里の空気を満喫できる直近での最後の機会となろう。これを逃せば次はリタイアした後だ。一体、何年後の話となるか。今しかない。

 無我夢中のさなかに経過した時は短く感じられるというが、今回などは、その適例だったろう。気が付けば、年の瀬も迫っていて。気が付けば、元旦は過ぎていて。気が付けば、舞姫が全日本バスケットボール選手権大会を制覇していて。気が付けば、『Power』のレコーディングだって完了していて。気が付けば、ミュージック・ビデオの撮影当日になっていて。

「結局、行かなかったんですか?」

 小正月の早朝だ。舞姫館に車で乗り付けると、尋道が出てきた。撮影の見学、後に試合、と皆が出払って無人となった建物の留守を守っている彼なのである。

「行けたら行く、としか言ってない」

 撮影の立ち会いをエディに求められた時に、孝子が返したせりふだった。

「確かに、そうおっしゃってましたけど」

「みんな、よくやったよ。万に一つもうまくいかないなんてことにはならない。私を呼ぶ必要なんて、元からなかったのさ」

「確かに」

「そうそう。郷本君のひいきがいるよ」

 孝子は助手席のドアを開けた。足元のスペースにはロンドがいる。

「やあ。ロン君じゃないですか」

 尋道は、いそいそとロンドを抱え上げる。

「まさか僕に会わせてくれるために連れてきたわけではないでしょう?」

「卒業旅行に行ってくる。福岡」

「ああ。もう行かれるんですね」

「知ってた?」

「今朝、静さんがうめいてましたよ。いきなり、卒業旅行で福岡に行く、と言いだして、家じゅう大騒ぎだそうで。ふむ。ロン君は連れていってもらえるんですね。よかったじゃないですか」

 ロンドに頬擦りの歓待を受けて、尋道は相好を崩している。

「いやー。ぼろくそに言われたね」

 表明に対して、養父母と義妹たちが浴びせてきた苦言の数々を思い出すと、体の芯のあたりが熱くなってくる。

「で、この子も、まとわりついてきて、引き留めてるのかと思ったら、どうも付いてきたいみたいなの。お前だけは私の味方か、ってうれしくなっちゃって。つい」

「結局、ご理解は得られたんですか?」

「いいや。脱走だよ。脱走。ばれないよう、まず、こっそり犬を外に出したでしょう。で、車を回して、乗れ、って。全く。私が福岡に行くことで、あなたたちに何か迷惑を掛けますか、っての。ここだけの話だけど、合わないなー。神宮寺さんちの皆さまとはー」

「よく那美さんのマークをかいくぐれましたね」

「今日はきゃつめ、共通テストで家におらぬ」

「それなら安心ですね」

「実際、危なかったね。あの子だけ、ちょっと文句の内容が違ったし」

「どのような?」

 待て。今、行かれては、自分が付いていけない。受験が終わった後にしろ。これだ。

「おふざけでないよ。私は、今、行きたいんだよ」

「まあまあ。今回も、船で?」

 以前に、福岡から舞浜へ戻ってきた時には長距離フェリーを用いた孝子だった。

「いや。途中、那古野に寄って、長沢先生に会う。泊めてくれるって。やったね。正治さんとのなれそめを聞き出してくるよ。帰ったら聞かせてあげよう」

「結構です。それよりも、ずっと陸路だと、ロン君、さっきの場所は危なくないですか。いえ。短ければ大丈夫、というわけでもないでしょうが」

 そのとおり、と孝子は応じた。

「何しろ急だったでしょう。証明書のコピーなんかは、いつも車に乗せてあるんだけど、それ以外が、一切、なくて」

 至急、買い調えてくるので、その間、ロンドを預かっていてほしい。卒業旅行の出発前に舞姫館を訪ねた理由は、ここにあった。

「僕が行ってきましょうか?」

「ブリーダーさんのところだから。紹介する手間とか考えたら、私が行ったほうが手っ取り早い」

 言い置いて、孝子は車に戻った。ロンドを抱えた尋道が運転席に寄ってくる。車窓を開けると、ロンドのクーンクーンが聞こえてきた。

「しみったれた声を出さない。向こうに行ったら、嫌になるぐらい一緒にいられるんだよ。我慢しろい」

 伝わったようで、静まったロンドを一なでし、次いで、尋道に向かって手を振ると、孝子は車を発進させたのだった。

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