第五四一話 冬物語(二〇)
新たな日課が孝子の日常に加わった。景と佳世への歌舞の手ほどきだ。アーティに与えている歌唱指導の後に組み入れた。
きっかけは尋道からの依頼だった。時は、先日の試合観戦日である。余裕綽々のまま試合が終われば、舞姫の、もう一つのハイライトといっていい歌舞が始まる。眺めていると、ぼそりと景がつぶやく声が聞こえてきた。これが、気が重い、と。恥ずかしい、と。
「こればかりは免除するわけにはいかないですね。どうしても、とおっしゃるのであれば、内定を取り消します。神宮寺さん」
冷めた声が届いて、孝子は首をすくめた。
「怖い。私、何もしてないのに」
「あなたには何も言ってないでしょう。どうですか。須之内さんに歌舞の指導をしてあげてはいただけませんか。きっちりできるようになれば、心持ちも違ってくると思うのですが」
狭苦しい自室に滞在する時間を減らすための口実が、さらに増えることになる。孝子に否応はなかった。どうせなら、と佳世もひっ捕まえて、二人まとめて面倒を見る。かくして夜中の指導の開始と相成ったわけであった。
週が明けて、初回の指導を終えた孝子が帰宅すると、いつもの組み合わせの那美とロンドが外で待ち受けていた。
「ケイちゃん。遅いよー。もう日が変わるじゃないの。眠いー。寒いー」
震えながら那美は文句を付けてきたが、ネグリジェの上にカーディガンを羽織っただけの姿で、一二月上旬の夜気に突っ込んできておいて、何をほうけているのか。自業自得といえた。孝子に文句を言うのはお門違いだ。
「誰も、待ってて、なんて言ってない。さっさと寝ろ」
「わんわんが暴れるんだよ。お迎えする、お迎えする、って」
「押し入れにでも放り込んでおいたら?」
「なんで、そんなひどいことを言うの!」
「うるさいな。犬。お前のせいで那美ちゃんに八つ当たりされたよ。申し訳ないと思うなら、もう那美ちゃんに迷惑を掛けるなよ」
抱くと、ロンドは孝子にむしゃぶりついてくる。戯れながら屋内に入れば、LDKには養家の人たちが勢ぞろいしていた。こちらも孝子を待っていたそうな。ありがた迷惑なことだった。那美同様に、寝ろ、と言ってやれたら、どんなによかったか。
「もしかして、私を待っていてくださったんですか? この時間になったら戻らないほうがいいみたい。次は、そうします」
「孝子さん。気にしなくていいのよ。それよりも、今日はどうしたの。いつにも増して遅かったけど、何かあったの?」
「歌舞のレッスンを始めたんです。須之内さんと池田さんに。須之内さんが、自信ない、って言うので。今からやっておけば、一年後には、形になるかな、と。池田さんは、巻き添えですね」
「歌舞の指導はロケッツさんのチアに委託してるんじゃなかったの?」
養母の言うとおりなのだが、孝子は既にカウンターアタックの態勢に入っている。カラーズの誇る、詐欺師だか、寝業師だか、軍師だかの献策がある。
「いえ。あの二人は、まだ正式な舞姫の一員ではないので、あちらに見ていただくことはできません。それに、今の歌舞は、須之内さんが入るころには、変わっている予定なんです。で、新しいほうを知っているのが、今のところ、私だけなので」
「え。だったら、私にも声を掛けてくれたらいいのに」
美幸の次は静が来た。
「せっかくお願いしてるんだし、縄張り荒らしはできないよね。先方のレッスンも、おいおい始まると思うし、そっちは、もうちょっと待って」
二人以外に教えるつもりはない、という表明の表現も、当たり前のごとく受け流す。
「そっか。新しいほうって、アーティの曲だよね。変わるのは、いつごろの話?」
予定では、再来年の二月になる。歌舞の新曲すなわちアーティの新曲、『Power』が「ワールド・レコード・アワード」でいずれかの賞を受けた暁の変更が画策されていた。
「思いっ切り、絵に描いた餅だけどね。アートの人気なら、もしかしたら、とも思う。仮に、そうならなかったとしても、だいたいそのあたりで変わると思うよ。そうそう。その件絡みで、来週、エディさんが来るんだって」
「初耳」
「私も今日になって聞いた。今回は仕事だし、あまり会う機会はないかもね」
「ケイちゃん。その、『Power』って、どんな歌なの?」
最後に、那美だ。
「アップテンポで、ちょっと激しい感じかな」
「聞きたい!」
「ごめんね。まだ発表前の曲だし、部外者には聞かせてあげられないの」
なお、須之内景と池田佳世は、カラーズが内定を出した立派な関係者である。孝子は尋道の手練に満足した。




