第五三話 姉妹(六)
国府スポーツ公園から一般道を経て高速道路に至るまで、ウェスタの車内は無音である。正確には、孝子の洋楽セレクションが流れている。しかし、音量を絞っているため、ロードノイズにかき消されてしまっている状態だ。
時間が止まったような空間の原因は神宮寺家の二人だ。一連の処遇に不満がありありと現れている静は、まぶたを閉じて、一言も発さない。処遇を強行した孝子も、また、まぶたを閉じて、一言も発さない。こちらは感情が表情に露骨な静と異なり、完璧な無表情だ。
春菜も、彰も、陰性には程遠い性質の二人である。しかし、このときばかりは、孝子と静が発する不協和音に、沈黙する他ない。一方、姉妹の、特に姉の特性を把握している麻弥は、君子危うきになんとやらを決め込んでいる。
出発して一時間がたとうというころだ。
「どうしたの?」
孝子が目と口を開いた。運転者の麻弥がウインカーを操作したのだ。
「ここでとまる」
言いながら麻弥はウェスタを減速車線に入れる。標識で東野という、サービスエリアか、パーキングエリアか、と知れた。
「ここでおばさんと合流」
「えっ……?」
孝子は驚きの声を上げ、静も目を見開いた。
「電話があったんだよ。孝子につながらない、って。話し中で」
「ああ……。大学病院に電話してたとき、かな」
「それだ。最初は、向かってる、ってだけの話だったんだ。その後、孝子が、連れていく、って言ったんで……。ストップ。もういる」
見れば、小さな駐車場の隅に中型の白いセダンがとまっていて、運転席側のドアに女性がもたれている。神宮寺美幸と顔立ちは酷似しているが、ヘアスタイルからファッションまで洗練の極致にある美幸と比べると、引っ詰め髪にパンツスタイルと、こちらは素朴な印象だ。
「美咲叔母さん!?」
静の驚きの声だった。麻弥がクラクションを鳴らすと、叔母の神宮寺美咲が気付いて、手を上げる。さらに孝子、静、麻弥を驚かせたのは、ドアを開けて、美幸と那美が出てきたことだった。
静が車から降りると、那美がものも言わずに寄ってきて、きつくその手を握りしめる。美幸も静に寄り添って、その肩を抱く。双方、心なしか、目が赤い。
「姉さん、那美、これ」
美咲が手にしていたのは大型のトートバッグだった。那美が受け取り、美幸が静の耳元でささやく。小さくうなずいた静が二人に守られて歩きだす。
「着替え。多分、そこまでは手が回ってないだろうな、って思って。持ってきて正解だったみたい」
ジャージーの背中を追っていた美咲が、ここで孝子に視線を移した。
「見てたよ。てっきり、目立ちたがりが、また、って思ったら、孝子だし。姉さんと一緒に叫んでたわ」
「美咲さん、今日は、病院は……?」
美幸は神宮寺家の家業である神宮寺医院の院長を務めている。この日は平日だ。故の、麻弥の問いだった。
「代診を頼んである。多分、決勝まで行くだろう、って思って。しかし……」
美咲の視線は、静たちが向かった方向に移った。その先には東野の施設がある。化粧室で静は着替えをしている最中だろう。
「姉さん、早かったわね。美咲、私、行ってくるわ、って。孝子が連絡してくるはずよ、待ちなさい、って言っても、全然聞かないんだもの」
美咲の言葉は続く。
「あのままじゃスピード違反をやりかねなかったし、じゃあ、私も行くわ、ってことになって。那美に、ちょっと出てくる、って言ったら、あの子も、行く、って……」
美咲が四人に向き直る。
「車の中で、那美が、うるさい、うるさい。もっとスピード出せ、って。これ以上出したら捕まるわ、って言ってるのに。なんだかんだあっても、やっぱり姉妹ね」
笑いながらも、その表情に潤みが見えるのは、美咲もまた姉妹の不仲を憂えていたためだろう。
孝子は感慨無量だった。かつて那美は言った。不仲は姉からの一方通行、と。自分に彼女を嫌悪する理由はない、と。言葉に偽りのなかったことを、那美は証明してみせた。静は、妹の行動を、どう受け止めるのだろうか。
「あ、そうだ」
美咲は車の運転席に半身を突っ込むと、しばらく何やらやって、四人の前に戻ってきた。
「これ、誰に渡したらいい? 孝子がこっちに乗ってくなら、麻弥ちゃんに渡すけど」
美咲が手にしているのは、ティッシュペーパーの包みだった。
「五人だと狭いと思うので、私はこちらで」
「わかった。じゃあ、これ。そっちでいろいろ予定もあったでしょうに、ありがとうね」
「はい。いただきます」
孝子が包みを押しいただいたところで静たちが戻ってきた。静はジャージーの上下から一転して、ウエスト部分にリボンをあしらったラベンダーのワンピースをまとっている。涼やかな服装に、足元の、ごついバスケットシューズが異質だが、さすがにそこまでは神宮寺家の女たちも思い至らなかったのだ。
「美咲叔母さん、早く行こう」
はやっているのは静の手をきつく握る那美だ。心なしか、握り返す静の手にも力がこもっているように、孝子には見えたのだった。
「ちょって待って」
「姉さん。心付けなら私が渡しておいた。乗って。二人も、乗って」
美幸の声に、即座に美咲が応じた。
「孝子さんは?」
「五人だと狭いでしょ。あっちの車で行ってくれる、って。じゃあ、義兄さんの所に行くわ。孝子、後でね。みんなもありがとうね」
乗り込みながらの言葉が終わるや否や、白いセダンは動きだした。
「これで一安心、だな。のんびり追うか」
ほっと一息をついた麻弥の調子だった。
「検査があるだろうし、家族以外は行ってもすることないよ。任せておけば大丈夫。そうだ。何か食べて帰ろうか」
車は既に視界から消えていたが、孝子はじっと、その方向を見たままでつぶやく。
「私たちのことは気にしないでください」
「そうです。遠慮なさらないで」
「……どれ、いくら入ってるんだ」
麻弥は、ひょいっと孝子の手の包みを取ると、開いて、中身を数えている。春菜と彰の気遣いを無にする、なんとも無粋な行為ではある。
「さすが、美咲さん。豪気だな。雪吹は、この後は、何か予定あるのか?」
「い、いえ。特に、何も……」
「うちに招待してやろうか。同じ値段なら、店で食べるより、うちで食べたほうが量をいけるしな。お前、かなり食べるだろうし。孝子、いいか?」
「うん。そうしよう」
気まずそうに眉をひそめる春菜と彰を尻目に、孝子と麻弥は、何を食べるか、で論争を開始した。
一〇年来の親友氏は、お見通しだった。法的にいっても、養家一同の心情をいっても、孝子は確かに神宮寺家の家族である。しかし、当の本人には、やはり、はばかるものがあるのだ。そして、その、はばかるもの、は、母子の、姉妹の、関係を目の当たりにした今、ひとしおであることだろう。
……実際は、孝子と隆行の血縁など、事情はさらに複雑なのだが、一〇年来の親友氏の読みは、おおむね当たっていた。どれだけ神宮寺家の厚遇を受けようと、自分はよそ者である、という気持ちは、終生、消えないだろう。よそ者には、一線があるのだ。その思いは、母子の、姉妹の、真情を見た今、ひとしおなのだ。
結局、この暑い日に、と主張する麻弥に、どうせクーラーを入れるんだから、と孝子が押し切って、食事は鍋に決まったのだった。