第五三二話 冬物語(一一)
煩悶のあまり、一睡もできなかった静だ。しけた面をして朝食に顔を出せば、見とがめられるのは、道理であった。
「静お姉ちゃん! どうしたの、その顔!?」
妹の那美が騒げば、母の美幸には詰問調でただされた。医師である父の隆行は既に出勤しており、義姉の孝子は黙々と食事を取りながら騒ぎをうかがっている。
「ちょっと夜更かししちゃって」
このようにまずい言い訳が通用するのなら世話はない。静はますます集中砲火を浴びてしまう羽目となった。
「私、行かなくちゃ」
逃げを打っても、追及はやまなかった。
「今日は休みなさい」
「いや。行かないと」
「いいでしょう。一日ぐらい。そんな具合悪そうにして、何ができるっていうの。休みなさい」
「じゃあ、練習は、やめておくよ。でも、行かなきゃ。郷本さんに相談があって」
明け方近くになって、ようやく思い至った静の秘策だった。何度もすがってきた兄貴分を頼る。今度ばかりは、いくら彼でも解決できないかもしれない。それでも、下手の考え休むに似たり、だ。静が一人で思い悩むよりは、はるかにましのはずである。
「郷本君になんの相談があるの」
「チームのことで」
「どうしてあの子にチームの相談をするの。畑違いでしょう」
詰まった静に、意外な人物からの助け船が来た。
「静ちゃん」
孝子だった。
「この時間だったら、郷本君、まだおうちにいるでしょう。行ってきたら?」
孝子が指すのは壁掛け時計だ。午前七時半なら、確かに尋道も在宅である可能性は高かった。
「そんな顔色で、車を運転する、っていうんだったら、全力で止めたけど。歩きなら、すぐそこだし大丈夫でしょう」
郷本家は道を挟んだ又隣だ。距離にして二〇メートルもない。
「うん! 行ってくる!」
朝食の途中だったが、それどころではなかった。母の叱声も無視して、静は家を飛び出した。
郷本家を訪ねると、義姉の言葉どおりに尋道は出勤前であった。ワイシャツのボタンを上二つまで開けたラフな格好で彼は玄関先に出てきた。
「おはようございます」
「おはようございます。どうされましたか」
「郷本さんにご相談したいことがあって」
「わかりました。どうぞ」
応接室に通され、差し向かいで座る。
「多分、朝を食べられて、すぐですよね。コーヒーとか、いります?」
「あ。大丈夫です」
「はい。で、どうされましたか」
実は、と始めた説明で、静は一切の隠し事をしなかった。景の言い草も、自分の考えも、だ。洗いざらい打ち明けてしまわねば、尋道も対策の立てようがないはずだった。
「他ならぬ静さんのご依頼です。選手にせよ、スタッフにせよ、どちらの場合であろうと、なんとでもしますけどね」
静が語り終わるのと同時に尋道は言った。
「選手、でしょうね。スタッフなら、井幡さんの下に入っていただきますが、合わない気がしますよ。井幡さんは舞姫版の斎藤さんみたいな方です。パワフル過ぎて、須之内さんでは付いていけないでしょう」
尋道は一呼吸を置いた。
「それ以前に、です。井幡さんよりも、もっと怖い人がいますよ。舞姫の、その上に。いるでしょう。須之内さんみたいな向きの大嫌いな方が」
舞姫の上といえばカラーズだ。カラーズといえば孝子だ。
「口裏を合わせようにも、須之内さんの一挙手一投足でばれると思うんですよ。あの人の目は節穴じゃない。そうなったら、一巻の終わりです」
異論はなかった。孝子は激甚な気性の持ち主である。
「じゃあ、私が景に、しっかりして、って言えば、大丈夫ですか?」
「失礼ながら、静さんでは駄目です。言うなら、僕です。相当、きつく言わせていただくことになるでしょうが、それぐらいしないと神宮寺さんは欺けません」
この隙のない人に責め立てられる景の心情を思うと、承諾していいものか、静は迷った。舞姫からも逃げ出しかねない恐れがあった。
尋道は結論を急がなかった。静の表情に浮かんだちゅうちょが読まれたのだろう。話がまとまったら知らせるよう告げられ、次いで、辞去を求められた。そろそろ彼は出勤の時間だそうである。




