第五二七話 冬物語(六)
出血サービスといっていい。孝子はアーティへの歌唱指導を始めた。普段であれば絶対にしない。音楽家とよろしくやれ、と放り捨てる。
指導場所に選んだのは、舞姫館の体育館棟にあるトレーニングルームだ。一に、広さ。二に、防音性。加えて、夜半近くの開始にすれば、利用者は皆無で他の迷惑とならず、また、指導が深夜に及んだ場合には、そのまま舞姫館に宿泊する、などという手も使える。全ては、狭小の自室に戻らぬため、ここに帰結するのである。
「やっぱり、ケイティーは、うまいわ」
その日の指導を終え、並びのトレーニングベンチで差し向かった時だ。アーティが、しみじみとつぶやいた。
「でも、歌舞のときはケイティー、途中で逃げちゃうし、引き分けね」
「……うるせえ」
試しに、と関の振り付け映像に合わせて歌ってみたらば、孝子は楽曲の半分にも達しない時点で音を上げ、離脱したのだ。
「あんなに激しく動いて、歌えるか。アートはおかしい。セキもおかしい。私だけ普通。それでいいじゃない」
「よくないわよ。ケイティー。もう少し体力を付けたほうがいいんじゃない?」
「だから、お前たちがおかしいの。普通に生きていく分には、これで足りるの」
強弁は、アーティに鼻で笑われる。
「二度とやらない」
「まあ、いいけど。ところで、ケイティー。私、考えたのよ」
「何を」
「マイヒメの歌舞、ね。『Power』に変えるのは、どうかしら?」
現在、舞姫が歌舞で使用しているAsterisk.の『Shooting Star』は、その簡便な振り付けを採用の決め手としていた。試合の後にやることだ。あまり激しいものは向かない、という判断だった。
「無理じゃない? ちょっと激し過ぎると思うな」
「余裕よ」
「そりゃ、アートはいけるだろうけど」
頑健な大女め。自分ができるなら他人にもできる、などとは考えるべきではない。叱声に、アーティは首を横に振ってみせる。
「大丈夫。皆、試合の後でも、元気いっぱいよ。絶対に、できる」
こうまで言い切られると、アスリートならざる身としては、再反論も致しかねる。いいだろう。歌い踊るのは舞姫たちだ。孝子ではない。好きにすればよいのである。
指導にかこつけて、その夜も舞姫館に宿泊した孝子だったので、翌朝の食事は同所の食堂で取る。混雑を避けるつもりで少し遅れて入ると、何やら様子が変だ。静まり返っている。食事は全員、済ませているようなのだが、誰一人として身動きがない。
孝子は手近な円卓に寄った。高遠祥子と伊澤まどかが着く円卓だ。
「何してるの。もう食べ終わったんでしょう」
「いえ。まだ」
小声で祥子が答えた。きれいに片付いていると思われた円卓の上は、まだ食事が始まっていない故というのか。
「アートがシェリルに怒られて」
こちらも小声のまどかだ。
「なんで」
「アートが、歌舞の曲を変えたい、って言ったんですよ」
昨日の今日で、早速、ぶち上げたのか。横目でうかがうと、ぶすっとしたアーティの顔があった。
「そしたら、シーズン中に無茶を言うな、ってシェリルが怒って」
再び、横目だ。言われてみれば、シェリル、憤怒の形相である。なるほど。シェリルの鋭気に当てられて、皆が動けずにいたわけか。春菜や美鈴のようなふてぶてしい連中までも沈黙させるとは、さすがの貫目といえた。
が、感心ばかりもしていられなかった。プロフェッショナルどもや舞姫館が職場の祥子、まどかはいいとして、協賛企業に就職している連中は、さっさと食べさせなければ、このままでは遅刻する。緊迫した情勢は、早々に終了させねばなるまい。全く。
「アート。『Power』で『ワールド・レコード・アワード』は狙わないの?」
びくりとアーティが震えた。剣崎と関に『Power』を託した時のあおり文句を、ここでも使う。音楽業界に身を置く大方にとって、その名が持つ重みは誠に大きい。利用させてもらおうではないか。
「だって、そうじゃない。『FLOAT』のときも、今年の『My Fair Lady』のときも、エディやミスター・ケンザキと入念に準備をしたでしょう?」
続けて、アーティのデビュー曲にして、昨年度の「ワールド・レコード・アワード」受賞曲、『FLOAT』と、先般、発表された二曲目の『My Fair Lady』、これらの制作過程を例に引く。なお、ソングライター、岡宮鏡子の名を出していないのは、故意とである。
「ザールで踊りたいだけだったら、急ごしらえでもいいだろうけど。そうでないなら、二人を差し置いて勝手はしなさんな。取り下げなさい」
アーティを手なずければ、シェリルの機嫌も直る。後は、エディとミスター・ケンザキと、ついでに、リューイチ・セキに放り投げるとしよう。
一件落着である。




