第五二二話 冬物語(一)
飄然と岩城は去った。送別ライブの半月後だ。孝子は、受験態勢へと転じていたこともあって、喫茶「まひかぜ」の最終営業日に顔を出さなかった。名残なら、ライブの打ち上げで、とっくりと惜しんである。訪客でごった返している可能性も高く、あえて蛇足を加えるには及ぶまい、と読んでの所業になる。
同じころ、司法試験予備試験の口述試験も、ライブの練習にうつつを抜かしていた割には、つつがなく終了し、孝子は一息つく形となった。とくれば、舞姫だろう。日本リーグが開幕して、はや四節というのに、ただの一度も試合を見ていない孝子なのだ。来日以来、いまだに顔を合わせていないアーティとシェリルを訪ねる必要もあろう。
二度手間を避けるため、孝子は舞姫戦の観覧を思い立った。その後に二人と合流し、歓談すればよい。さらに考えを進めていく。どうせならザールのボックスシートを使ってみたかった。尋道に問い合わせてみると、ボックスシートには急な要用に対応できるよう、常に空いている予備室があるので、それを提供する、との話であった。孝子のリクエストは舞姫にとっての要用と見なしていい。遠慮なく使ってほしい。直近のホームゲームは、月が明けた一一月、最初の週末に開催されるアズラヴァルキューレとの二連戦だ。楽しんで。そう、尋道は言った。
「土曜日に、舞姫の試合を見に行こうよ」
早速、夕食時に孝子は切り出した。
「佳世君。ボックスシートでおはるの活躍が見られるよ」
「え。待てよ。あそこ、普通に売ってるはずだろ? 買ったのか?」
麻弥が反応した。
「いいや。予備室があるんだって。郷本君が、使っていい、って」
「あいつ、なんの権利があって、そんな勝手を」
「ボックスシートの営業はカラーズの担当でしょう。郷本君はカラーズの実質的なトップじゃない。何も問題はないでしょう」
怪しくなってきた雲行きに、春菜と佳世の視線が、慌ただしく交差したようだ。
「そうかもしれないけど、私用はまずくないか?」
「わかったよ。行かなけりゃいいんだろ。行かなけりゃ」
遠雷の響きのようなつぶやきを発した後に、孝子は猛烈な勢いで食事を済ませた。自室に戻り、スマートフォンと対する。
「はい」
電話をかけた相手は尋道だ。
「昼の話はキャンセル。私用はまずくないか、って言われた」
「……正村さんに?」
「そう。もし、何か手配してくれてたら、お手数を掛けさせちゃって、ごめんなさい」
「それはいいんですが。見解の相違ですね」
「何が」
「昼にも言ったように、神宮寺さんのリクエストは、舞姫にとっての要用になると思うんですがね。まあ、いいでしょう。わかりました。キャンセルしておきます」
「うん。じゃあ、おやすみなさい」
事態が意外な方向へ展開したのは、くしくもくだんの土曜日だ。朝食の席で、麻弥がおずおずと切り出してきた。
「孝子」
「何」
「あの」
言いさしたまま、麻弥は語尾を濁す。
「何」
先日のいさかいからというもの、しっくりいっていない相手だ。こちらの語尾は、ついすさぶ。
「いや。実は、剣崎さんに誘われて、一緒に住まないか、って」
あいつと一緒は疲れた。すぐ怒るし――などと、お前のほうが泣き付いたんだろう。言ってやろうかとも思ったが、上気した顔は、そういった邪念とは無縁に見えた。とすれば、孝子も邪念は捨てよう。
「え。ついに、ご成婚?」
「そうじゃなくて! ほら。私たちが、ここにいるのって、残り半年だろ。その後は、どうするの、って話になって」
孝子の大学卒業と同時に、海の見える丘を立ち退くことが決まっている四人だった。孝子は春菜と佳世を引き連れて鶴ヶ丘に戻り、麻弥は舞姫館の寮だったか。
「税理士事務所って、一二月から来年の五月あたりが繁忙期なんだって。忙しい時に引っ越しの準備なんてできないだろうけど、今のうちなら、って剣崎さんに言われて」
「ほほう。あのおじさん、わざわざそこまで調べて口説いたのか。やるね」
「おい」
「冗談だよ。いいんじゃない? いい機会だし、私たちもお引っ越しのことを考えようか」
何気なく言って、孝子は気付いた。確かに、これは、いい機会、といえた。うまく運べば、面白い。麻弥の退去に合わせて残る二人も追放すれば、気楽な一人暮らしの幕開けとなる。細心の注意を払い、ぜひとも、ものにしなくてはならない。やらねば。




