第五一七話 まひかぜ(一五)
大学の夏季休暇が終了して後期が始まった。同時に、舞浜大学千鶴キャンパス学生協同組合北ショップにおける孝子のアルバイトも再開だ。
「あなたの孝子が参りました。お出迎えは?」
午後四時五五分に店内に突入すると、途端に罵声が飛んできた。
「小娘。ぎりぎりじゃないの。騒いでないで、さっさと支度しな」
アルバイトの開始は午後五時となっている。北ショップの店長、風谷涼子の叱声もやむなしだった。
「あれ。ご機嫌斜め。さては彼氏とうまくいってないな」
「おあいにくさま」
なおもじゃれる孝子に、涼子の返しは素っ気ない。
「夏休みは二人で温泉旅行なんてしゃれ込んできたのさ。うぬに土産はないがなあ」
「けち。意地悪。物好き。この暑いのに温泉なんて」
「いや。次に会うまでの時間を考えたら、食べ物だと賞味期限が怪しいじゃない? だから、雑貨にしよう、って思ったら、斯波さんが、あの子はそんなの喜ばない、なんてね? 言うのさ」
遺憾であったが、涼子の恋人、斯波遼太郎の洞察は正しい。自己分析するまでもなく、その手に興味のない孝子だ。
「あと、岩花は暑くなかったよ。標高が高いのね」
岩花とは、なんたる偶然だろう。岩城の出身地が群馬県岩花市ではないか。
「ああ。違うよ」
孝子の様子に何かを察したようで、涼子は首を横に振った。
「私たちが岩花に行ったのは偶然。その後に聞いた。喫茶店のマスター、引退されるんだってね。あ。違うか。古里に戻られるだけで、喫茶店は続けるんだっけ」
「はい」
「来年は休みを合わせて避暑しよう。涼みながら熱いコーヒーをいただこうよ。で、だ。君。いいかげんに支度をしたまえ」
「はーい」
ようやく孝子がレジに立ち、涼子が奥で業務日誌の執筆に取り掛かる、という普段の配置となった。
「そうそう。バスケ、盛り上がってきてるね。開幕まで一カ月ぐらいだっけ。ふとしたところで舞姫の名前を聞いて、びっくりすることがあるよ」
来客のないまま五分ほど経過したころだった。背後から涼子の声だ。
「へえ」
「気のない返事ですわね。社長さん」
「試験勉強に集中してて、ほとんど情報を入れてないんですよ。今日だって、一日、がり勉してましたし。舞姫、今は、どんな感じなんですか?」
振り返っての言い訳だ。真実、集中しているのは、もっぱら別件についてなのだが、わざわざ白状する必要はない。
「井幡さんを、よく見るね。ネットの記事とかで。テレビやラジオなんかにも、せっせと出て、舞姫をアピールしてるみたいだよ」
舞姫の柱石たる存在が井幡由佳里だ。八面六臂の活躍らしい。
「次の次のユニバースが、オーストラリアのアルビオンに決まったでしょう? そこに、自前の選手を送り込むのをプレー面での中長期的な目標として、チームを強化していきたい、とかなんとか、私が見た記事ではおっしゃってた」
次の次は七年後になる。義妹の静が二八歳。北崎春菜と武藤瞳が二九歳。市井美鈴が三一歳。バルシノで栄えあるゴールドメダリストとなった彼女たちにとって、おそらくは、バスケットボール人生の岐路となるであろう「ユニバーサルゲームズ」だ。
「どうしたの。黙りこくって」
「いえ。もしかしたら、妹たちのうち何人かは、そのあたりで引退するかも、なんて思って」
「カラーズの子たちは、七年後はいくつになるんだっけ」
「妹が二八で、一番上の市井が三一ですね」
「ああ。確かに、スポーツ選手としては、中堅からベテランに差し掛かる年齢になるのかな」
しきりにうなずいていた涼子が、不意に、その形のよい眉をひそめた。
「まあ、そんな話は、どうでもいいんだよ」
「いきなり、どうしたんですか」
「いいんだよ。そうだ。温泉。岩花温泉の話をしてあげよう」
事情を察するのには、少し時間がかかった。
「なんだ。七年後は私も三十路仲間ですよ。そちらは、四捨五入したら、四〇ですけど」
「小娘。そこに、直れ」
孝子より六歳年長の涼子は、七年後には三六歳になっている。たわいないといえばたわいのない、それが、豹変の真相であった。




