第五一四話 まひかぜ(一二)
果てない残業に臨む部下を、ほっぽっておくわけにはいくまい。翌九月一日、孝子は郷本家入りする前に舞姫館を訪れた。
「郷本君よ。手伝っておくれ」
館内に入るなり尋道を指名する。
「はい」
「まだ忙しくなってないの?」
並んで外に出たところで尋ねた。ちらりと見やった限りでは、オフィスの空気に目立った変化はなさそうだった。
「エントリーシートが発表されるのは午後なので、今は嵐の前の静けさですね」
現在の時刻は午前一一時だ。
「じゃあ、間に合った」
車のラゲッジには差し入れの入った紙袋が満載されている。
「お菓子ですか。すごい量だ」
孝子の披露を受けて尋道がうなった。
「気張ってもらおうと思ってね。よし。運ぼう」
「あ。置いたら、すぐに行かれます?」
「うん」
「では。ライブの件で、少し。実は、関さんが、ザ・ブレイシーズのライブに参加したい、とおっしゃっているそうなんです」
プロフェッショナル、関隆一が、一介のアマチュアバンドのライブに、一体全体、なんの用だ。孝子は目顔で次を促した。
「元々、いらっしゃる予定だったらしいですね。歌舞の監修とザールの下見とで」
「いつだったか、剣崎さんに聞いたね」
「ええ。で、剣崎さんが、舞姫の練習はなくなった旨の連絡を関さんに入れて、そこから、キャンセルしたのか、いや、岩城さんの送別ライブをやる、みたいなやりとりがあって。で、構わない、行く、と。恩人の恩人、岩城さんの門出を祝いたいし、カラーズの店子として協力したいし、ついでに、ザールのチェックもしたいし、だそうです、が」
意味深長に尋道は接続助詞で区切った。
「が?」
「善意の発露からの行為と、素直に敬服したいんです。でも、つい勘繰っちゃいましてね」
「具体的に」
「はい。関さんは、おそらく、岡宮鏡子の正体に気付いています。というのは、剣崎さんがライブのメンバーを先方に漏らしてるんですよ。あの方と、うちのおじさんは、実名で『ワールド・レコード・アワード』の表彰を受けていますでしょう。この二人とつるんでいる神宮寺さんが、さては岡宮鏡子、と読むのは難しくありませんね」
岡宮鏡子、剣崎龍雅、郷本信之――これら三人の先には、スーパースター、アーティ・ミューアがいる。関はザ・ブレイシーズを足掛かりにして、アーティとの接近を狙っているのではないか。たとえ関ほどの男であっても、彼女の知遇を得ることは、大きな僥倖となろう。
翻って、ザ・ブレイシーズは、どうか。こちらは、どうも、いい話にはなりそうになかった。ザ・ブレイシーズは完成したスリーピースだ。イレギュラーなメンバーの追加など蛇足の一言に尽きる。打って出るつもりのないザ・ブレイシーズには、関のネームバリューも無用のものである。
「といって、剣崎さんの手前と店子との関係を考えると、むげに断るのもはばかられますし。やあ。困った。どうしましょうか」
長広舌を振るい終えた尋道は腕組みする。
「任せるよ。イエスでも、ノーでも。そういう駆け引きこそ郷本君の得意分野でしょう」
「わかりました」
「運ぶぞ。と、危ない」
紙袋の持ち手を乱暴にかき集めていた孝子は、はたと手を止めた。
「これは丁寧にしないと。中身が崩れちゃう」
「なんです?」
孝子がそろそろと持ち上げた紙袋を尋道はのぞき込んでくる。
「山みたいな盛りのフルーツタルト。一人で食べたら、私、途中で戻すね。伊澤さんにあげようと思って」
「ああ。MVPのお祝いですか」
先般行われたバスケットボール女子アジア選手権大会で、各務智恵子率いる全日本女子バスケットボールチームは、見事、栄冠に輝いた。その中にあっても抜群の活躍を見せたのが伊澤まどかだった。
「そそ。中村さんも楽しみだね。国内組の一番手に、市井さんたちに、シェリルとアートだもの。すごいチームだよ」
「本当に」
少し間が空いた。
「神宮寺さん。先ほどの関さんの件、駆け引きしてみてもいいですか?」
「いいよ」
即答だ。内容は、聞くまでもなかった。この男は信用に値する。孝子はただ、近日中に届くであろう報告を待っていればよい。
両手に提げた大量の紙袋を孝子は掲げた。話は終わった。行くぞ、だ。




