第五一三話 まひかぜ(一一)
午後一〇時を回っても、駐車スペースにはまだ青い車がとまっていたので、早速、楽曲の制作がはかどっているのだろう、と思いきや、何事が起こったのやら。帰宅した尋道を迎えた孝子の顔には、明らかな不快の念が浮かんでいた。
「どうされました」
問えば、
「愚妹と駄犬が来た」
吐き捨てるように孝子は言った。
「ああ」
孝子を熱烈に慕う赤柴のロンドによって潜伏を感知されたのだ。とすれば続いたであろう流れは、容易に想像できた。作業を邪魔された孝子は、ロンドと同伴者の那美をもろとも怒りに任せて叱り飛ばし、今に至る。これだった。
「すみません。ロン君の存在を忘れていました。あの子なら、神宮寺さんがここにいる、ってわかりますね。そうですか。神宮寺さん会いたさに来ちゃいましたか」
「そうだよ」
「ちょっと着替えてきます」
二階の自室に戻った尋道は、手早く着替えを済ませて、一階に戻った。孝子は作業場として提供した応接室でソファにふんぞり返っていた。テーブルの上には五線紙が散らばっている。信之の姿はない。ご機嫌斜めの孝子に恐れをなして逃げ出したに違いなかった。
「前に怒られたのにねえ」
尋道は孝子の対面に座った。
「本当だよ」
過去にも孝子がお忍びで郷本家を訪ねてきたことがあった。その際、今回と同様に押し掛けてきた一人と一匹は、これまた今回と同様、孝子の一喝を食らっている。
「クソガキども。許さない」
甚だ穏やかでない口調を聞いて、尋道は首をすくめた。緩和措置が入り用そうだ。
「この際、きつく言うべきですね。次にやったら縁を切る、と」
しらっと見やってきた孝子の視線は、ひたすら鋭い。尋道の言い回しに気付いたのである。
「次は?」
「一度だけ、チャンスをあげてください。僕はロン君びいきなんですよ。いじらしくて、かわいいじゃないですか」
「ふうん」
「どうでしょうね。僕の顔に免じて許してやっていただくわけには」
「……駄犬だけでいいの?」
「那美さんはひいきにしていません。野放図で、正直、苦手です。あの方については、ご随意になさってください」
ひとしきりの高笑いだ。
「郷本君一流の話術で、うまうまと丸め込まれた気がするなあ。まあ、いいや。免じよう。でも、次やったら、本当に縁を切るよ」
「まんまと丸め込まれてくださって、ありがとうございます」
「よいよ。さあ。もうきゃつらのことはいいでしょう。郷本君は、いつも、こんな遅い帰りなの? 今日が、たまたま?」
ソファに座り直して、孝子は尋ねてきた。態度と話題の転換は、孝子が機嫌を直した証拠とみてよさそうだった。一人と一匹に対する評価に虚偽はなく、話術うんぬんと称されるような次元のものではなかったが、奏功したようで何より、といえた。
「最近は、伊澤君の送迎が終わった後も、一仕事してるんですよ。そうでもしないと、なかなかさばききれなくて」
「カラーズ、そんなに忙しいの?」
イギリスリーグの開幕が原因だった。メジャー中のメジャーであるサッカーの引き合いは、やはり、相当に多い。
「おまけに、三人とも、大活躍ですからね。忙しくもなります。ただ」
尋道は肩をすくめた。
「ただ?」
「明日は、こんなものでは済まないでしょうね」
「何かあるの?」
毎年、九月一日は、当該年度の日本女子バスケットボールリーグに参加する各チームのエントリーシートが発表される日となっている。大きな衝撃をもって迎えられるはずだ。神奈川舞姫のエントリーシートに記された、アーティ・ミューアとシェリル・クラウスの名は。どれほどの騒ぎが沸き起こるのか、想像できなかった。伴って、どれほどの残業をしなければならなくなるのかも、また、想像できなかった。




