第五一〇話 まひかぜ(八)
昨日の今日で孝子が再訪してきたのには、岩城も驚いたようだった。狭い店に人がごった返して、ゆっくり話せなかった。一日置いて仕切り直しだ、と告げれば、老マスターの顔にほほ笑みが浮かぶ。
「悪いね。僕の人徳さ」
「おじいちゃん。何を言ってるんですか」
「僕を慕って、二日続けて来てくれた子もいるんだ。間違ってないよ」
「来なきゃよかった」
「そう言わないの。ころ合いだし、お昼にビスケットを作ってあげるから」
岩城が作るアメリカ式ビスケットは孝子の好物だ。
「やった」
「ただ、材料がない。お代はケイティー持ちで買っておいで」
「じじい」
「ははは。さあ。まずは一杯」
にやりとしながら岩城はコーヒーの抽出に取り掛かる。
「それにしても、本当に突然で、驚きました」
「僕も、ね。このまま舞浜でくたばる予定だったんだけど、兄一人弟一人の弟に泣き付かれたんじゃ、むげにはできない」
「はい」
「せめて子供でもいればよかったんだが、あいつのところもうちと一緒で子宝に恵まれなくてね」
口を挟むべき内容ではない。孝子は黙ってうなずくにとどめた。やがて、コーヒーが供された。
「おいしい。なかなか岩花までは行けないし、これからは通い詰めて堪能しなくちゃ。岩城さん。こちらは、いつまで?」
「一〇月、かな」
孝子は驚いた。予想外に早い。
「随分と急ですね」
「一一月になると、すぐ近くの県道が閉鎖されたりするぐらいには山奥なのさ。あまり遅くなると、困ったことになりかねないんだ」
地域柄、仕方のない事情といえたが、たとえ、そうであっても、残り二カ月とは、あまりにも短かった。
「ケイティー」
いささか放心の状態に陥っていたらしい。岩城がのぞき込むようにして孝子の顔を見ていた。
「大丈夫かい?」
「はい。二カ月って、結構、すぐですよね」
「うん」
ふと思い出した。
「岩城さん。だいぶ前になりますけど、私が新居の自室を防音室にしたい、って剣崎さんに相談したのを覚えていらっしゃいますか?」
義理の叔母が建て替える「本家」に一室をあてがわれた孝子が、そこを趣味の音楽に打ち込む空間にするべく、音楽家に監修を依頼したのは、昨年の年末だ。
「思い出した。こけら落としのライブに招待してくれる、って話だったよね。もう、おうち、建ったの?」
「いえ。この間、上棟が終わって、今は大工工事と聞いてます」
「残念。間に合わないね」
「はい。そちらは間に合わないんですが、一つ、思い付いたことがあって。別の場所でライブ、岩城さんの送別ライブを開く、って言ったら、お越しいただけますか?」
「いいよ」
「正確な日付は、ちょっとど忘れしちゃって。確か、一〇月の半ばだった思うんですけど。ご都合は大丈夫ですか?」
「うん」
孝子はスマートフォンを取り出した。善は急げだ。この場合の善とは、郷本尋道への依頼になる。
「はい」
「郷本君。舞姫がザールで練習する、って話、あったよね。あれ、どうなった?」
尋道が応答するや、まくし立てる。
「やる、そうですよ。正味一時間ぐらいしかできないみたいですが」
「やめさせて」
「はい」
「代わりに私が使う。岩城さんの送別ライブをする。手伝って」
「わかりました。お一人ですか?」
「ザ・ブレイシーズでやれたらいいけど、一人でもやる」
「では、まとめてから、再度、連絡を差し上げますので、ひとまず、これで」
「うん。お願い」
最善手を打った。真っ昼間に寝るわけにもいかないので、果報は、ただ、待つ。ちょうど、ビスケットの材料を買いに行く、という暇つぶしがあった。尋道ならば戻るまでには、なんらかの成果を上げているはずだ。では、出掛けるとしよう。




