第五〇六話 まひかぜ(四)
翌日、孝子が「まひかぜ」を訪ねたのは、昼前の午前一一時だ。少し遅めの開店が常である「まひかぜ」には、これぐらいの時間に向かうのがよい。確実を期するなら電話で確認すべきところを、そんな周到さは薬にしたくてもないのが孝子の持ち前となる。
入店すると、カウンターに先客がいた。なじみの剣崎はいいとして、彼の左右に二人いるうち、一人はすぐにわかった。舞浜F.C.グラウンドで何度も顔を合わせて見知った顔だ。舞浜F.C.に所属するプロサッカー選手の氷室勝成、その人である。一方、もう一人は、わからぬ。わからぬが、大過とはなるまい。孝子は岩城に会うためにやってきたのだ。見てくれのいい男のようだが、その部分も含めて、関係ない。
「やあ」
剣崎の声に孝子は一瞥をくれた。
「今日は剣崎さんに用はありませんので、話し掛けないでください」
笑い交じりに天を仰ぐ剣崎を尻目に、孝子は岩城と相対した。
「岩城さん。お店のこと、伺いました」
「うん。まあ、そんな事情でね。向こうでも続けるつもりだから、よかったら来てよ」
「行きます」
「それはそうと、ケイティー。斎藤さんが、ここを買う、って言ってたけど、本気かね」
「本気でしょう。あの人が、やる、と言ったなら、必ずやります」
「こう言っちゃなんだけど、場所が場所だけに、高くつくよ」
「斎藤に、不可能はありません」
「何か、聞いてるのかい?」
「何も」
ううむ、とうめいた岩城は、いったん、コーヒーの抽出へと引いていく。漆黒の液体が孝子の眼前に供されるまで、店内は無音となった。
「若い人に重荷を押し付けるのは、気が引けるんだがね」
「斎藤の馬力をなめないでください。この程度、重荷にはなりません」
コーヒーカップを片手に孝子はぶつも、岩城の憂色は晴れないようである。
「自分の懐が痛むわけでもないのに。面倒くさいじじいだな」
舌打ちしながら孝子はスマートフォンを取り出した。みさとに、と発信しかけて、相手は勤務時間中、と思い至る。電話をかけるなら事務所だ。
「お電話ありがとうございます。斎藤英明税理士事務所、斎藤でございます」
応対はみさとだった。
「ちょうどよかった。今、『まひかぜ』なんだけど、岩城さんが、若い人に重荷を押し付けるのは気が引ける、とか言ってるの」
「例の不動産?」
「そう。私は、こんなおんぼろ、斎藤みさとの重荷にはならない、って言ってるのに、じじい、信じない。プレゼンしに来て」
「任せろ!」
言うなり、みさとは電話を切った。この短兵急よ。
「岩城さん。斎藤が来るまで待たせていただきますね」
「うん」
「ケイティー」
剣崎だった。
「待つ間の暇つぶしに、俺たちとのおしゃべりは、どう?」
「仕方ないな」
「斎藤さんは、ここを、このまま使うつもりかな?」
「知りません」
「使うつもりなら、引き続き店子として、置いてほしいんだけど」
「そういえば、剣崎さんって、こちらに家賃とか払ってたんですか?」
「払ってくれてたよ。結構、入れてくれてたんで、非常に助かってた」
岩城の補足が入った。
「へえ。わかりました。斎藤が、こちらをどう料理するつもりかはわかりませんけど、引き続き、むしってあげます」
「よろしく」
「岩城さん。上って、どうなってますか?」
「このビルの? ああ。駄目。剣崎君が地下を使ってるのも、好きこのんでじゃないんだ。上が、ぼろぼろでね。手を入れようにも、金がかかり過ぎるから、比較的きれいだった地下を、って話なのさ。何しろ築六〇年を越えてる」
「じゃあ、一階と地下しかまともに使えないわけですか。となると、斎藤は、このままにはしておかない気がしてきた。リノベーションでもするかな。それとも、建て替えかな。あの人、やることが派手だし、建て替えを選びそうな気がする」
「ああ。ちょっと」
ずっと寡黙に過ごしていた第三の男が声を上げた。
「初めまして。関といいます」
Asterisk.の関隆一か。言われてみれば、こんな顔かたちだったような気もする。
「神宮寺です」
「神宮寺さん。もし、おっしゃったように、リノベーションか、建て替えか、でこちらを活用していくんだったら、俺も店子に加えてほしいんですよ。剣崎さんの仕事場のそばに、俺も、作業場を持ちたいと思って」
Asterisk.の雌伏期に終止符を打った一作が、音楽家の手によるものだった縁から発生した交友、という。よいのではないか。カラーズファミリーの一員と呼んで差し支えない剣崎が、親しく付き合っている相手だ。信用できよう。孝子は即決した。店子、二丁、上がり。




