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未知標  作者: 一族
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第五〇三話 まひかぜ(一)

 盆の明けた日だ。墓参の土産をぶら下げ、なじみの喫茶「まひかぜ」に出掛けた父親の信之が、珍しくほろ酔い機嫌で帰ってきたのを見て、尋道は驚いた。ほとんど飲まぬ、飲めぬ彼の父親なのである。一体、どういう風の吹き回しか。

「どうしたの。珍しい」

 信之とは親子ほども年齢の離れた母親が老齢の夫を気遣っている。

「岩城さんと、軽くね」

「ご老公、飲むんだ」

 階下の騒ぎを聞き付けて、姉の一葉も居間に現れた。父親の供で何度か「まひかぜ」に顔を出している彼女は、喫茶のマスター、岩城を見知っていた。

「いや。あの人も、ほとんど飲まない。中瓶を二人がかりで空にできなかったのは、なかなかふがいなかったね」

「そんな弱い二人が、どうして、飲みに行こう、ってなるのよ」

 一葉の疑問はもっともだ。中瓶一本のさかなは、なんだったのだろう。

「うん。いい年して、なんとなく、しんみりしちゃってさ。尋。岩城さん、あの店を畳んで里に帰るんだって」

 翌日、尋道は営業を確認した上で「まひかぜ」に赴いた。正午前は、カラーズのフリータイム制を活用した訪問時間となる。

「やあ。いらっしゃい」

 店内には岩城の他に剣崎がいた。黙然とした彼は、入店した尋道にも、ほとんど反応しなかったが、事情は承知しているので気にならない。「まひかぜ」の閉店話を聞いた剣崎は、甚大な衝撃を受けたようだ、とは信之に聞いたことだった。

「尋道君。お茶、いただいたよ。やっぱり、静岡のお茶は違うね」

 尋道の父方の墓所は、茶の産地として名高い静岡県四ノ原市にある。信之が岩城に贈った土産も、同市名産の高級茶葉だった。

「味が濃いですよね。お口に合ったならよかった」

「何か、お返しをしなくちゃね。といっても、僕の古里は、温泉ぐらいしか誇るものがなくてさ。温泉を持ってくるわけにはいかないし、かといって温泉まんじゅうなんて、どこの温泉地にでも売っていて贈り甲斐がないし」

 そう言って笑う岩城は、群馬県岩花(いわはな)市の出身という。岩花市は名湯、岩花温泉を擁する群馬県北西部の市だ。

「でしたら、両親を連れていきますよ。いい宿を紹介してください。……岩城さん、こちらを閉めて、岩花に戻られると伺いました」

「うん。義理の妹の新盆にね、帰ったら、泣き付かれたのさ。弟に」

「はい」

「僕と違って、割と恰幅のいいやつだったんだけど、そいつが、まあ、見る影もなくげっそりしちゃってて。いなくなるつらさはわかるんでね。いいよ。戻るよ、って」

「はい」

 ここで淹れたてのコーヒーが供された。

「いただきます」

「どうぞ。この店って、元々、うちのやつがやるはずだったんだよ。ところが、店を開く前に逝っちゃってさ。そしたら、あきれたおセンチじゃないか。受け継いだよ、当時の僕。会社まで辞めて。結構、偉くなってたのにね」

 傍らでは剣崎ががくぜんとしている。中瓶一本のさかなに語られた老紳士の過去は、長い付き合いの剣崎でさえ初耳の逸話であったらしい。

「岩花でも続ける予定だそうですね。おセンチ」

「うん。ああ。これも郷本さんに聞いてるかな。元手がないんで、ここの始末が終わり次第になるから、だいぶ先だと思うけどね」

 尋道は胸中で腕によりをかけた。往訪の、いよいよ核心となる。

「岩城さん。誠にせんえつですが、もしよろしければ僕におセンチのお手伝いをさせていただけないでしょうか」

「尋道君に?」

「はい。酔った父を見ているうち、なんだか込み上げてくるものがありまして。幸い、これで僕もなかなか顔が広いんですよ。もっぱら神宮寺さんのおかげですが。お役に立ちたいし、立てる、と思います」

 情理を備えた自薦の弁が奏功し、尋道は喫茶「まひかぜ」の移転事業の一切を請け負う首尾となった。早速、動きだすとしよう。今日は忙しくなりそうだ。

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